「日本は核保有をすべきか、すべきでないか」
この問い自体が、長年日本では事実上のタブーとされてきた。核兵器は是か非かを考える前に、「議論すること自体が許されない」という空気が存在してきたからだ。
しかし、国際情勢が激変する中で、その前提は本当に維持できるのだろうか。
今回報じられた、首相官邸の安全保障政策を担当する人物による「核を持つべきだと思っている」という発言は、日本社会にその問いを突きつけた。
本記事では、このニュースを起点に、日本が核保有を「する・しない」以前に、なぜ議論すら封じられてきたのか、そして今なぜ議論に上げてもよい段階に来ているのかを整理する。
官邸筋の核保有発言が示したもの
今回の発言は、公式会見でも政策表明でもない。オフレコを前提とした非公式取材で出た、いわば「本音」に近い言葉だった。
それにもかかわらず、野党各党は一斉に反発し、「即時更迭」「辞任要求」「断じて許されない」といった強い言葉を並べた。与党内からも慎重論が出され、政府は「非核三原則を堅持する」と火消しに追われている。
注目すべきなのは、発言内容そのものよりも、反発の激しさである。
もしこの発言が荒唐無稽で現実味のないものであれば、ここまでの反応は必要なかったはずだ。
つまり今回の騒動は、「核保有というテーマが、もはや無視できない現実性を帯びてきた」ことの裏返しでもある。
非核三原則は「法律」ではない
日本が核を持てない理由として、必ず持ち出されるのが非核三原則だ。
- 核兵器を持たず
- 作らず
- 持ち込ませず
しかし重要なのは、非核三原則は法律ではないという点である。
憲法にも明記されておらず、国際条約でもない。あくまで国会決議と政治的合意によって形成された「政策方針」にすぎない。
政策方針である以上、国際環境や安全保障状況の変化に応じて見直しや再定義が議論されるのは、本来は自然なことである。
それにもかかわらず、日本では長年「非核三原則=絶対不可侵の国是」として扱われ、検討や議論の対象から外されてきた。
「唯一の被爆国」という論理は抑止になっているのか
日本の反核論の根幹には、「唯一の戦争被爆国」という立場がある。
確かに道義的には重い意味を持つ。しかし、国際政治は道義だけで動かない。
現実の安全保障環境を見ると、次のような状況が同時進行している。
- 中国は核戦力を急速に増強し、東アジアでの軍事的影響力を拡大
- 北朝鮮は日本全域を射程に収める核・ミサイル能力を保有
- ロシアは核兵器を現実の威嚇手段として使用
これらの国々に対して、「日本は被爆国だから核攻撃されない」という論理が、抑止として機能しているとは言い難い。
むしろ、核を持たないこと自体が脆弱性になっているのではないかという問いが、現実的なものとして浮上している。
なぜ日本では「議論」すら許されなかったのか
日本で核の議論が封じられてきた背景には、複数の要因がある。
- 戦後平和主義の象徴として核問題が固定化されたこと
- 国内政治における反核・反軍事勢力の強い影響
- 「議論する=核武装推進」という短絡的なレッテル貼り
その結果、核保有を「検討する」「シミュレーションする」「是非を比較する」といった、政策論として当然のプロセスが欠落してきた。
しかし、議論をしないことは、平和を守ることと同義ではない。
最悪の事態を想定しないことこそが、最大のリスクになり得る。
今は「結論」ではなく「議論」の段階
重要なのは、今回の発言が「日本は今すぐ核武装すべきだ」という主張ではない点だ。
現実的には、核保有には時間も国際的コストもかかる。
だが、日本は技術的には核保有が可能な潜在能力を持つ国であり、その選択肢をどう扱うかは、国家戦略の問題である。
- 核を持つのか
- 持たないのか
- 核共有や抑止力強化で代替するのか
こうした選択肢を比較検討すること自体が、成熟した民主国家の姿であるはずだ。
まとめ:議論を封じる国であり続けるのか
今回の官邸筋発言とそれに対する猛反発は、日本社会の根本的な弱点を浮き彫りにした。
それは、「安全保障について、冷静な言葉で議論する耐性がない」という点である。
核を持つか否かは、最終的には国民的合意が必要な重いテーマだ。
しかし、その前段階として、
- 議論すること
- 問題提起を許すこと
- 異なる立場を比較すること
これらが封じられている状態は、健全とは言えない。
日本はこれからも、「核の話題は口にした時点でアウト」という国であり続けるのか。
それとも、厳しい国際情勢を直視し、議論する勇気を持つ国になるのか。
今回のニュースは、その分岐点を示している。