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楯の会とは?三島由紀夫が結成した組織の思想・活動・最期

「楯の会」とは、作家の三島由紀夫が1968年に結成した、学生を中心とする民間の政治・防衛組織です。

三島が制服をデザインし、会員が自衛隊への体験入隊を行っていたことから、しばしば「私設軍隊」や「民兵組織」と表現されます。

そして1970年11月25日、三島と会員4人が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で東部方面総監を拘束し、自衛隊員へ決起を呼び掛けた「三島事件」によって、その名が広く知られるようになりました。

しかし、楯の会は最初から武力によるクーデターだけを目的に作られた組織だったのでしょうか。

今回は、楯の会が結成された背景、三島由紀夫の思想、自衛隊との関係、具体的な活動、そして組織の最期までを分かりやすく解説します。

楯の会とはどのような組織だったのか

楯の会は、三島由紀夫を隊長として1968年に正式結成された民間団体です。

構成員は主に大学生で、規模はおおむね100人前後だったとされています。一般の政党や大衆運動のように会員数の拡大を目指すのではなく、少数の若者を選抜して訓練することを重視していました。

楯の会には独自の制服や隊旗、階級的な役割分担があり、会員は自衛隊の施設で体験入隊を行いました。この外見と活動から「私設軍隊」と呼ばれます。

ただし、楯の会は自衛隊の正式な予備組織でも、自衛隊から指揮を受ける部隊でもありません。法的な軍事組織としての権限もなく、あくまで三島が個人的に組織した民間団体でした。

自衛隊の体験入隊を利用して訓練を受けていましたが、「自衛隊の一部だった」という説明は正確ではありません。

楯の会が結成された時代背景

楯の会が誕生した1960年代後半、日本では学生運動が激しくなっていました。

ベトナム戦争、日米安全保障条約、大学運営などをめぐって抗議運動が広がり、大学の封鎖や警察との衝突も相次ぎます。

新左翼の一部は武装闘争へ進み、三島は共産主義勢力による革命や、社会の混乱に乗じた「間接侵略」が起きる可能性を警戒していました。

一方、戦後の日本国憲法では天皇が象徴とされ、戦争の放棄が定められています。自衛隊は存在していましたが、憲法上の位置付けをめぐる議論が続いていました。

三島は、国を守る実力組織である自衛隊が、軍隊として明確に認められていない状態に強い矛盾を感じていました。

こうした学生運動の激化、共産主義への警戒、天皇の位置付け、憲法と自衛隊の矛盾に対する三島の危機感が、楯の会結成の背景にありました。

前身となった「祖国防衛隊」構想

楯の会には、「祖国防衛隊」という前身構想がありました。

三島は、外国軍による直接的な侵略だけでなく、国内の混乱や政治工作を利用した間接侵略に備える民間防衛組織を作ろうと考えます。

当初は、企業などの協力を得て大規模な民間防衛組織を整備する構想も持っていました。しかし、資金や協力者を確保することは難しく、計画は想定どおりには進みませんでした。

そこで、大規模な組織を一気に作るのではなく、まず少数の学生を訓練し、中心となる人材を育成する方向へ計画を変更します。

その中核となったグループが、後の楯の会です。

1967年には三島自身が自衛隊へ体験入隊し、翌1968年には学生を引率して体験入隊を行いました。そして同年、楯の会が正式に結成されます。

「楯の会」という名前の意味

「楯」とは、攻撃を防ぐための道具です。

楯の会という名称には、天皇や日本の歴史、伝統、文化を守る盾になるという三島の考えが込められていました。

ここで重要なのは、三島が守ろうとした「文化」が、美術品や文学作品だけを意味していなかったことです。

三島にとって日本文化とは、長い歴史の中で受け継がれてきた生活、伝統、精神、天皇を中心とする共同体意識などを含むものでした。

三島は、経済的に豊かになるだけでは国家は存続できず、国民が命よりも大切だと思える価値が必要だと考えていました。

楯の会は、その価値を守るために行動する集団として構想されたのです。

楯の会の思想とは

楯の会の思想を一言で整理すれば、天皇を中心とする日本の文化と歴史を守り、自衛隊を正式な国軍として位置付けようとする国家主義的な思想です。

主な特徴は、天皇への強い尊重、反共産主義、戦後体制への批判、日本国憲法の改正、自衛隊の国軍化などでした。

三島は、象徴天皇制そのものだけを問題にしたのではありません。

戦後日本が経済成長や個人の生活を優先する一方、国の歴史や共同体のために責任を負う精神を失ったと考えていました。

また、自衛隊についても、国を防衛する実力を持ちながら、憲法上は軍隊として明確に位置付けられていないとして批判しました。

三島の思想では、天皇、文化、国民、防衛が互いに結び付いています。楯の会は、その思想を文章や演説だけでなく、身体訓練や集団行動によって実践しようとした組織でした。

楯の会は右翼団体だったのか

楯の会は一般に、右翼、民族派、国家主義的な団体に分類されます。

天皇を重視し、共産主義に反対し、憲法改正と国軍の確立を求めていたため、政治的位置としては右翼に属すると考えてよいでしょう。

ただし、当時の一般的な街宣右翼とは活動方法が異なります。

楯の会は街宣車で各地を回ったり、軍歌を流して日常的な街頭宣伝を行ったりする団体ではありませんでした。政党の選挙運動を支援する組織でもなく、広く一般市民を集める大衆団体でもありません。

少人数の学生を集め、思想教育、自衛隊での訓練、規律ある集団行動を重視した点に特徴があります。

そのため、「右翼団体」という分類は間違いではありませんが、現在イメージされる街宣右翼と同じ種類の組織だと考えると、実態を見誤ります。

楯の会はどのような活動をしていたのか

楯の会の代表的な活動は、自衛隊への体験入隊です。

会員は自衛隊の施設で、隊内生活、行進、体力訓練、戦闘の基礎に関する訓練などを経験しました。国会審議では、一定期間の体験入隊を終えることが会員資格とされていたことも取り上げられています。

そのほか、三島による講義、政治や憲法に関する研究、隊員同士の討論、集団訓練、制服を着用した行事などが行われました。

1969年には、東京の国立劇場屋上で制服姿の会員によるパレードも実施されています。

組織の運営費は、主に三島本人が負担していたとされます。三島は有名作家として得た収入を、制服の製作や会の活動に投入しました。

もっとも、楯の会全体が継続的に暴力事件を起こしていたわけではありません。通常の活動は訓練や研究が中心で、最後の三島事件も、全会員ではなく三島と選ばれた4人によって実行されました。

自衛隊と楯の会はどのような関係だったのか

三島は体験入隊を通じて、自衛隊幹部や隊員との交流を築きました。楯の会の会員も、自衛隊の協力を受けて訓練に参加しています。

このため、後に「自衛隊が楯の会を育成したのではないか」「自衛隊内部に協力者がいたのではないか」といった疑問が国会でも追及されました。

しかし、自衛隊が組織として三島の政治活動や市ヶ谷での行動を承認していたわけではありません。

体験入隊は民間人を対象に行われていた制度の枠内で実施されたものであり、楯の会は自衛隊の指揮系統から独立した団体でした。

三島は自衛隊を高く評価する一方、自衛隊員が現行憲法を守る立場にとどまり、憲法改正へ動こうとしないことに失望を深めていきます。

自衛隊との接触を重ねながら、最終的にはその自衛隊に決起を呼び掛けるという矛盾した関係になったのです。

1970年11月25日の三島事件

1970年11月25日、三島由紀夫は楯の会の森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の4人とともに、東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部を訪れました。

一行は東部方面総監の益田兼利と面会した後、総監を拘束して総監室に立てこもります。制止しようとした自衛官との間でも衝突が起き、負傷者が出ました。

三島たちは、庁舎前に自衛隊員を集めることなどを要求します。

バルコニーに立った三島は、集められた自衛隊員に対し、現在の憲法を否定して自衛隊が決起し、憲法改正へ立ち上がるよう呼び掛けました。

しかし、演説は自衛隊員の賛同を得られませんでした。現場では反発や野次が起こり、三島の訴えに呼応する動きもありませんでした。

演説を終えた三島は総監室へ戻り、割腹自決しました。森田必勝も後を追って自決します。残った3人は総監を解放して投降し、後に裁判で有罪判決を受けました。

三島は本当にクーデターを起こそうとしたのか

三島事件については、本当に自衛隊によるクーデターを成功させようとしていたのか、それとも失敗を予想したうえで行った象徴的な抗議だったのか、現在もさまざまな解釈があります。

約100人規模の楯の会だけで国家権力を掌握することは、現実的ではありません。三島の演説に自衛隊員が応じる可能性も、極めて低いものでした。

そのため、三島自身も決起が成功しないことを理解しており、自らの死によって戦後日本へ問題を突き付けようとしたのではないかと考えられています。

一方で、東部方面総監を実際に拘束し、負傷者まで発生させた以上、単なる演劇や思想表現だけで済ませることもできません。

政治的な目的を伴う現実の犯罪行為であり、残された会員や自衛隊関係者にも大きな影響を与えました。

三島の行動には政治、思想、文学、美学、死生観が複雑に重なっており、一つの動機だけで説明することは困難です。

三島事件後、楯の会はどうなったのか

三島と森田を失ったことで、楯の会は事実上、活動の中心を失いました。

市ヶ谷の行動は一部の会員だけに知らされており、多くの会員は計画に参加していませんでした。

事件後、残された会員の間では、組織を存続させるか、三島の意思に従って解散するかが問題となります。最終的に楯の会は、翌1971年に正式に解散しました。

楯の会が別の右翼団体へそのまま改称したわけでも、現在まで同じ組織として存続しているわけでもありません。

活動期間はわずか数年でしたが、有名作家が自ら組織を作り、自衛隊へ決起を迫ったという異例の経緯から、戦後政治史を象徴する存在として語り継がれています。

まとめ

楯の会は、三島由紀夫が1968年に結成した、学生中心の民間防衛・政治組織です。

天皇を中心とする日本の歴史と文化を守ること、共産主義に対抗すること、日本国憲法を改正して自衛隊を正式な国軍として位置付けることなどを重視していました。

会員は自衛隊への体験入隊や思想研究、集団訓練を行っていましたが、自衛隊の正式な部隊ではありません。

1970年11月25日、三島と会員4人は市ヶ谷駐屯地で東部方面総監を拘束し、自衛隊員へ決起を呼び掛けました。しかし賛同は得られず、三島と森田必勝は自決します。

その後、楯の会は1971年に解散しました。

楯の会を理解するには、単なる右翼団体、私設軍隊、三島のファンクラブといった一つの言葉だけで片付けるのではなく、当時の学生運動、冷戦、憲法と自衛隊、天皇制、そして三島独自の文化観を重ねて見る必要があります。

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