戦後の学生運動を扱った映像では、「全学連」と「全共闘」という名前が頻繁に登場します。
どちらもデモやストライキ、大学の封鎖などを行った学生組織として知られているため、同じ団体の別名だと思われることもあります。
しかし、両者は組織のつくり方も、活動した時期も異なります。
簡単に整理すると、全学連は全国の学生自治会を結ぶ連合組織、全共闘は大学紛争の際に大学ごとにつくられた共闘組織です。
全学連は1948年に結成され、1950年代から1960年安保闘争にかけて存在感を示しました。
一方、全共闘が広がったのは主に1968年から1969年です。既存の学生自治会や党派の枠を越え、個別大学の問題をめぐって学生が集まったことに特徴があります。
今回は、全学連と全共闘の違いを、戦後学生運動の歴史とともにわかりやすく解説します。
全学連と全共闘の違いを簡単に整理
両者の基本的な違いは、次のようにまとめられます。
全学連の正式名称は「全日本学生自治会総連合」です。
各大学の学生自治会を構成単位とし、それを全国規模で結ぶ連合体としてつくられました。大学ごとの自治会から代表者を出し、全国大会などを通じて方針を決める組織です。
全共闘の正式名称は「全学共闘会議」です。
特定の大学で紛争が起きた際、学部、大学院、サークル、政治党派、無党派学生などが、共通する要求のために集まってつくった運動組織です。
つまり、全学連は「全国の自治会を縦につなぐ組織」、全共闘は「一つの大学の中で異なる集団を横につなぐ組織」と考えると理解しやすいでしょう。
また、全学連は継続的な組織として設立されましたが、全共闘は多くの場合、個別の大学闘争に対応するための臨時的な性格を持っていました。
そもそも学生自治会とは
全学連を理解するには、その土台となった学生自治会について知る必要があります。
第二次世界大戦後、全国の大学では、学生生活や教育環境について学生自身が意見をまとめ、大学側と交渉するための自治会がつくられました。
当時の学生自治会は、現在のサークルや任意加入団体とは性格が異なります。
大学や学部の学生全員が構成員になることを原則とし、選挙によって委員や代表を選び、授業料、学生生活、大学の民主化、学問の自由などについて活動する組織でした。
ただし、学生全員が自治会執行部の思想や運動方針を支持していたわけではありません。
自治会が全員加盟を原則としていたことと、すべての学生がデモや政治活動に賛成していたことは分けて考える必要があります。
全学連は1948年に結成された全国組織
全学連は、戦後に各大学で誕生した学生自治会を全国的に結ぶため、1948年9月に結成されました。
結成大会には全国145校が参加し、傘下の学生は約30万人とされています。
当初の全学連は、授業料の値上げ反対、学生生活の改善、教育の民主化、学問の自由、反戦・平和などを掲げました。
結成時から日本共産党の影響力が強く、初代委員長も同党の東大組織に所属していました。しかし、全学連そのものが日本共産党の学生組織として正式に設置されたわけではありません。
組織上は、各大学の学生自治会が参加する全国連合体です。
このため、共産党の方針と全学連指導部の考え方が衝突することもあり、その対立が後の分裂につながりました。
1950年代に共産党との対立が深まった
1950年代の学生運動では、授業料問題だけでなく、基地問題、再軍備、警察制度、日米安全保障条約など、国政上の問題も大きなテーマになりました。
全学連内部では、日本共産党の指導に従うべきか、学生運動が独自に行動すべきかをめぐって対立が強まります。
1955年に日本共産党が運動方針を転換すると、それまでの党の指導を批判する学生活動家が増加しました。
1958年には、共産党と対立した活動家らによって共産主義者同盟、通称「ブント」が結成されます。
ブント系の学生は全学連執行部で大きな影響力を持ち、1960年の日米安全保障条約改定反対運動を主導することになります。
1960年安保闘争で注目された全学連
全学連の名前を全国に広く知らしめたのが、1960年安保闘争です。
岸信介内閣が進めた日米安全保障条約の改定に対し、社会党、労働組合、市民団体などが大規模な反対運動を展開しました。
全学連も国会周辺でデモを繰り返し、ほかの運動団体より強硬な直接行動を主張しました。
1960年6月15日には、デモ隊の一部が国会構内へ入り、警察との激しい衝突が発生します。この際、東京大学の学生だった樺美智子さんが死亡しました。
安保条約は成立しましたが、岸内閣はその後退陣します。
全学連は安保闘争を通じて大きな注目を集めた一方、運動の評価や今後の方針をめぐる対立も深まりました。
安保闘争後、全学連は複数に分裂した
1960年安保闘争後の全学連を、一つの統一組織として捉えると実態を見誤ります。
安保闘争後、運動方針や革命理論、政党との関係をめぐって、新左翼の各党派は分裂と再編を繰り返しました。
その結果、1960年代半ばには、民青系、革マル系、三派系など、複数のグループがそれぞれ「全学連」を名乗る状態になりました。
民青とは、日本共産党に近い日本民主青年同盟のことです。
革マル派、中核派、社学同、社青同解放派などは、それぞれ異なる理論や運動方針を持つ新左翼党派でした。こうした政治グループは、当時「セクト」と呼ばれました。
同じ全学連という名称を使っていても、所属する自治会、指導する党派、政治的立場は異なっていたのです。
したがって、「全学連がこの方針を決めた」と説明する場合には、いつの時代の、どの系統の全学連なのかを確認する必要があります。
全共闘は1960年代後半の大学紛争から生まれた
全学連が分裂して影響力を低下させる一方、1960年代後半には全国の大学で新しい学生運動が起こりました。
授業料の値上げ、学生会館の管理、大学当局の不正、教育制度、処分問題など、大学ごとの具体的な問題がきっかけでした。
既存の学生自治会だけでは紛争に対応できない、あるいは自治会執行部の方針では不十分だと考えた学生たちは、学部や組織の違いを越えた共闘組織をつくります。
これが「全学共闘会議」、略して全共闘です。
全共闘は一つの全国組織の固有名詞ではありません。
東大全共闘、日大全共闘、関学全共闘など、それぞれの大学に独自の全共闘が存在し、結成の経緯、要求、参加者、運営方法も異なっていました。
なぜ既存の学生自治会とは別に全共闘が必要だったのか
学生自治会は、選挙で選ばれた代表者や執行部が意思決定を行う、代議制を基本とする組織でした。
一方、全共闘では、闘争に参加する学生が集会に参加し、討論を通じて方針を決める直接参加型の運営が重視されました。
自治会に十分反映されない少数派や、政治党派に所属していない学生も、個人や小グループとして参加しやすい形でした。
各党派の学生も参加しましたが、特定の党派に所属しない「ノンセクト・ラジカル」と呼ばれる学生が重要な役割を担った大学もあります。
ただし、すべての全共闘が理想的な直接民主主義を実現していたわけではありません。
実際には、発言力の強い活動家や党派が方針を左右した例もあり、全共闘内部でも路線対立が起きました。
日大全共闘は大学運営の不正を問題にした
全共闘運動を象徴する一つが、1968年の日大闘争です。
日本大学では、約20億円の使途不明金問題などが報道され、大学運営に対する学生の不満が高まりました。
当時の日大では学生運動が厳しく制限され、大学側と学生が対等に話し合う仕組みも不十分だと批判されていました。
こうした状況を背景に日大全共闘が結成され、大学の民主化、経理の公開、責任者の退陣、学生への処分撤回などを要求しました。
1968年9月には、約3万5000人の学生が参加する大規模な「大衆団交」が両国講堂で行われました。
日大闘争は、最初から抽象的な革命を目指して始まったのではありません。大学の会計や運営という具体的な問題が、学生と大学当局の大規模な対立へ発展した事例です。
東大全共闘は医学部の処分問題から始まった
東大紛争は、1968年に医学部の制度や学生処分をめぐって起きた対立から始まりました。
大学当局が学生を排除するために機動隊を導入すると、大学自治を大学自身が放棄したという反発が他学部にも広がります。
同年夏に東大全共闘が結成され、医学部学生の処分撤回や、機動隊導入に対する大学側の自己批判などを含む「七項目要求」を掲げました。
運動は次第に大学制度そのものへの批判へ発展し、「大学解体」「自己否定」といった言葉でも語られるようになります。
1969年1月18日から19日にかけて、機動隊が安田講堂などの封鎖を解除しました。テレビで中継された安田講堂攻防戦は、全共闘運動を象徴する出来事となりました。
ただし、東大生全体が全共闘を支持していたわけではありません。
民青系の学生や無党派の反全共闘グループも存在し、紛争の終結方法をめぐって全共闘と対立していました。
全共闘は全国組織ではなかったのか
全共闘は基本的に大学ごとの組織ですが、全国的な連携がまったくなかったわけではありません。
東大闘争や日大闘争を支援するため、他大学の学生が集会やデモに参加することがありました。各大学の全共闘や新左翼党派の間でも情報や人員が行き来しています。
1969年9月には「全国全共闘連合」も結成されました。
しかし、これは各大学の全共闘が最初から一つの中央本部によって指揮されていたことを意味しません。
むしろ、各地で別々に成立した全共闘を後から全国的に結びつけようとした組織です。結成時には新左翼党派の影響が強まり、初期の大学別・大衆運動的な性格とは異なる面もありました。
全学連と全共闘は対立していたのか
全学連と全共闘の関係は、「味方」か「敵」かだけでは説明できません。
中核派や社学同など、各派全学連に参加していた活動家が、それぞれの大学の全共闘にも加わることがありました。
この意味では、両者の参加者は重なっています。
一方、日本共産党に近い民青系全学連は、反日共系の党派やノンセクト学生を中心とする全共闘と激しく対立しました。
大学によっては、全共闘と民青系自治会の学生が、バリケードの維持や解除をめぐって衝突しています。
つまり、全学連という既存の全国組織が全共闘へ名称変更したのではありません。
分裂した各派全学連の活動家、無党派学生、大学ごとのグループなどが、特定の大学で全共闘を構成したという関係です。
活動方法にはどのような違いがあったのか
全学連は、自治会決議、全国大会、ストライキ、請願、街頭デモなどを主な活動方法としていました。
全国的な政治課題について、複数大学の学生を一斉に動員できることが大きな特徴です。
全共闘は、全学集会、大衆団交、授業ボイコット、建物占拠、バリケード封鎖などを多用しました。
大学当局に代表者だけで交渉を任せるのではなく、多数の学生が参加する場で回答を求める大衆団交が重視されました。
しかし、運動が長期化すると、角材、投石、火炎瓶などを用いた衝突も発生しました。
機動隊との衝突だけでなく、対立する学生党派間の暴力、いわゆる「内ゲバ」も深刻化します。
こうした暴力の拡大は、一般学生や社会からの支持を失う大きな原因になりました。
ヘルメットの色は組織の違いを示していたのか
当時の映像では、学生がさまざまな色のヘルメットを着用しています。
ヘルメットには頭部を守る目的のほか、所属党派やグループを示す目印という意味もありました。
ただし、「全学連は何色」「全共闘は何色」と単純に決めることはできません。
全学連が複数の党派に分裂し、全共闘にも複数党派とノンセクト学生が参加していたためです。
色は主に党派や大学別組織を区別するものであり、全学連と全共闘を分ける統一的な記号ではありませんでした。
なぜ学生運動は急速に退潮したのか
1969年には「大学の運営に関する臨時措置法」が成立し、政府と大学側は紛争の収拾を進めました。
各大学では機動隊による封鎖解除が相次ぎ、バリケードを維持することが難しくなります。
さらに、運動内部の党派対立、長期化による一般学生の離反、暴力への批判、活動家の逮捕や卒業などが重なりました。
大学ごとの問題をきっかけに成立した全共闘は、要求が解決または挫折すると、組織を維持する共通目的を失いやすい構造でもありました。
1970年代には新左翼党派間の内ゲバが激化し、連合赤軍事件なども社会に大きな衝撃を与えます。
これらをすべて全共闘の直接的な活動とみなすことはできませんが、急進的な学生運動全体への社会的な不信を強めました。
「全共闘世代」は正式な所属を意味しない
現在では、1960年代末に大学生活を送った世代を広く「全共闘世代」と呼ぶことがあります。
しかし、同世代の学生が全員、全共闘に参加していたわけではありません。
全共闘に反対した学生、政治運動に関心を持たなかった学生、授業再開を望んだ学生も大勢いました。
したがって、「全共闘世代」は時代や社会経験を示す文化的な表現であり、必ずしも正式な組織所属を表す言葉ではありません。
現在の全学連は一つの組織なのか
全共闘は大学紛争の終息とともに、多くが解散または活動を停止しました。
一方、全学連という名称は現在も使われています。
ただし、歴史的な分裂を引き継ぎ、異なる政治的立場の団体がそれぞれ全学連を名乗ってきました。
現在の全学連を、1948年に結成された統一全学連が同じ組織形態のまま存続していると考えるのは正確ではありません。
報道や団体の声明で全学連という名前を見た場合は、どの系統の組織なのか、どの学生自治会が参加しているのかまで確認する必要があります。
まとめ
全学連は、1948年に結成された全国の学生自治会の連合組織です。
各大学の自治会を基礎とし、授業料、教育、平和、政治問題などについて全国的な運動を行いました。1960年安保闘争で大きな存在感を示しましたが、その後は政治党派ごとに分裂しました。
全共闘は、主に1968年から1969年の大学紛争で、大学ごとに結成された共闘組織です。
既存の自治会や学部、党派の枠を越えて参加者を集め、大衆団交やバリケード封鎖などによって大学当局と対峙しました。
両者には参加者や党派の重なりがありますが、同じ組織ではありません。
「全国の自治会連合である全学連」と「大学ごとの闘争組織である全共闘」という違いを押さえると、戦後学生運動の複雑な歴史を理解しやすくなります。