重信房子は、1970年代から海外で武装闘争を展開した「日本赤軍」の結成に関わり、最高幹部となった人物です。
日本赤軍はパレスチナの武装組織と連携し、空港襲撃、航空機の乗っ取り、在外公館の占拠など、世界各地で事件を起こしました。重信は長期間にわたって中東を拠点に活動し、日本では「国際テロの魔女」などと呼ばれることもありました。
ただし、重信本人が日本赤軍によるすべての事件を直接実行したわけではありません。組織の指導者としての政治的責任と、裁判で認定された個別事件への刑事責任は分けて考える必要があります。
今回は、重信房子がどのような人物なのか、日本赤軍の結成から海外活動、逮捕、裁判、2022年の出所までを分かりやすく解説します。
重信房子とは何者なのか
重信房子は1945年、東京都に生まれました。
若い頃は会社員として働きながら明治大学の夜間部に通い、1960年代後半に活発化していた学生運動へ参加します。
当時の日本では、日米安全保障条約、ベトナム戦争、大学運営などをめぐり、学生による抗議運動が広がっていました。しかし運動内部では路線対立や組織の分裂が進み、一部のグループは次第に武装闘争を掲げるようになります。
重信が参加したのが、共産主義者同盟から分裂して1969年に結成された「共産主義者同盟赤軍派」、通称・赤軍派です。
赤軍派は、通常の選挙や議会活動ではなく、武装蜂起によって国家体制を転覆し、革命を実現することを目指していました。
しかし、警察による幹部の逮捕や活動家の検挙が相次ぎ、国内での活動は次第に困難になります。そこで赤軍派の一部が構想したのが、海外に活動拠点を築く「国際根拠地建設」でした。
なぜ重信房子は中東へ向かったのか
1971年、重信房子はレバノンへ渡りました。
当時の中東では、イスラエルとパレスチナをめぐる対立が続き、複数のパレスチナ武装組織が活動していました。
重信はその一つであるパレスチナ解放人民戦線、PFLPと接触します。そして赤軍派の海外拠点として「赤軍派アラブ支部」を設け、パレスチナ側との連携を強めていきました。
重信らは、日本国内だけで革命を目指すのではなく、世界各地の革命運動や反帝国主義運動と結び付く必要があると考えていました。
一方、国内に残った赤軍派の一部は、京浜安保共闘と合流して「連合赤軍」を形成します。
つまり、日本赤軍と連合赤軍は名称こそ似ていますが、同じ組織ではありません。重信らが進めた海外路線が日本赤軍へつながり、国内に残った別のグループが連合赤軍へつながったのです。
日本赤軍はどのように結成されたのか
警察庁の資料では、日本赤軍は1971年、レバノンへ出国した重信房子らによって組織されたと説明されています。
当初は「赤軍派アラブ支部」や「アラブ赤軍」などの名称が使われていました。1972年のテルアビブ・ロッド空港事件によって、海外では「Japanese Red Army」、日本赤軍として広く知られるようになります。
その後、1974年に組織の名称を正式に日本赤軍へ統一しました。
日本赤軍は、パレスチナ解放闘争を世界革命の一部と位置付け、PFLPなどと連携しながら海外で活動しました。
重信は組織の理念や方針を示し、各地の支援者や武装組織との関係を築く中心人物でした。現場で事件を実行する構成員とは異なり、組織運営や政治的な調整、連絡などを担う指導者として活動したとみられています。
日本赤軍が起こした主な事件
日本赤軍、あるいはその前身に当たる組織が起こした代表的な事件が、1972年のテルアビブ・ロッド空港事件です。
岡本公三ら日本人3人が、イスラエルのロッド国際空港、現在のベングリオン国際空港で銃を乱射し、多数の一般旅行者が死傷しました。
その後も、日本赤軍は1973年のドバイ事件、1974年のハーグ事件、1975年のクアラルンプール事件、1977年のダッカ事件などを起こしました。
これらの事件では、航空機や大使館などを占拠して人質を取り、拘束されていた仲間の釈放などを政府に要求する手法が用いられました。
日本政府はクアラルンプール事件やダッカ事件で人質の安全を優先し、国内で服役・勾留されていた関係者を釈放しています。こうして日本赤軍は、新たな構成員を加えながら活動を続けました。
ただし、これらは日本赤軍という組織が起こした事件であり、重信本人の法的な関与は事件ごとに異なります。重信がすべての事件を現場で実行した、あるいはすべてを直接指揮したと一括りにするのは正確ではありません。
重信房子が起訴されたハーグ事件とは
重信の裁判で中心となったのが、1974年にオランダで発生したハーグ事件です。
日本赤軍の構成員3人が、ハーグにあるフランス大使館へ侵入し、大使ら11人を人質にして立てこもりました。その過程で警察官が銃撃を受け、重傷を負っています。
実行犯側は、フランスで拘束されていた日本赤軍関係者の釈放を要求しました。最終的に関係者は釈放され、立てこもったメンバーらは国外へ脱出しました。
重信自身は大使館占拠の現場にはいませんでした。
しかし裁判所は、重信が事件前にPFLP側へ武器の用意を求めるなど、事件に重要な役割を果たしたと認定しました。一方で、事件を全面的に計画・指揮した主犯とまでは認定されていません。
この点は、重信の経歴を説明する際に重要です。
組織の最高幹部だったことは事実ですが、裁判では「現場にいた実行犯」ではなく、海外から事件を支援した立場として責任が問われました。
長期間の潜伏と日本での逮捕
重信は長年にわたり中東を拠点に活動し、国際手配されていました。
日本赤軍は1980年代にも複数の海外事件を起こしましたが、1990年代に入ると、世界各地で構成員の逮捕や拘束が相次ぎます。冷戦の終結や中東情勢の変化もあり、組織の活動基盤は次第に弱まっていきました。
重信はその後、偽名などを使いながら日本国内へ入ったとされています。
2000年11月、警察は大阪府内に潜伏していた重信を逮捕しました。中東へ渡ってから約30年後のことです。
逮捕時に重信が笑顔を見せ、報道陣に向かって拳を上げる姿が大きく報じられたため、その映像を記憶している人も少なくありません。
獄中から日本赤軍の解散を宣言
逮捕後の2001年4月、重信は獄中から日本赤軍の解散を宣言しました。同年5月には、日本赤軍側も組織として解散を表明しています。
重信は、かつてのような武装闘争ではなく、合法的な活動によって社会変革を目指す方針を示しました。
一方、警察庁は、逃亡を続けている構成員がいることや、過去の事件に対する評価が十分に改められていないとして、解散表明だけで組織の危険性がなくなったとは判断していません。
現在も警察は、国際手配中の構成員の検挙や活動実態の解明を続けています。
したがって、「重信が解散を宣言したこと」と、「警察が日本赤軍に関する捜査や警戒を終了したこと」は同じ意味ではありません。
裁判ではどのような判決が出たのか
重信は、ハーグ事件に関する逮捕監禁や殺人未遂、偽造旅券の使用などの罪に問われました。
重信側は、ハーグ事件について自分は共謀していないとして争いました。
しかし、2006年に東京地方裁判所は重信の関与を認定し、懲役20年の判決を言い渡します。控訴審でも判決は維持され、2010年8月に最高裁判所で懲役20年の刑が確定しました。
裁判所は、重信が日本赤軍の中心人物だったと認定する一方、現場の実行犯ではなく、事件そのものを全面的に計画・指揮したとまでは認められないことも量刑で考慮しました。
服役中の闘病と2022年の出所
重信は服役中にがんが見つかり、複数回の手術を受けました。晩年の服役生活は、医療施設で治療を受けながら続けられたと報じられています。
そして2022年5月28日、懲役20年の刑期を終え、東京都内の医療刑務所から出所しました。当時76歳でした。
出所時、重信は報道陣に対し、日本赤軍の活動によって政治や軍事に直接関係のない人々へ被害や迷惑を与えたとして、謝罪の言葉を述べました。
その一方で、パレスチナ問題に対する関心や、自身の歴史認識については発信を続けています。
刑期を終えたことは、裁判で科された刑罰を終えたという意味です。しかし、日本赤軍が起こした事件の被害や歴史的責任をどのように評価するかは、それとは別の問題として残っています。
重信房子をどう捉えるべきか
重信房子については、見る立場によって評価が大きく分かれます。
一部の支持者は、パレスチナ問題を世界へ訴えようとした活動家として評価します。一方で、日本赤軍が採用した空港襲撃、ハイジャック、人質事件などによって、多くの無関係な市民が被害を受けたことも動かせない事実です。
政治的な目的がどのようなものであっても、一般市民を巻き込み、暴力によって要求を実現しようとする行為は正当化できません。
重信を単純に英雄視することも、逆に刺激的な異名だけで理解したつもりになることも、歴史を正確に捉えることにはつながりません。
なぜ当時の若者が急進化したのか、国内の学生運動がなぜ海外の武装組織と結び付いたのか、そして政治的理想がどのように暴力へ転化したのかを考える必要があります。
まとめ
重信房子は、共産同赤軍派から海外へ渡り、日本赤軍の結成と活動を主導した人物です。
1971年にレバノンへ渡り、PFLPと関係を築きながら日本赤軍の海外拠点を形成しました。その後、日本赤軍は世界各地で空港襲撃、ハイジャック、大使館占拠などの事件を起こします。
重信は長期間にわたって海外で活動した後、日本へ潜伏し、2000年に大阪府内で逮捕されました。
2001年には獄中から日本赤軍の解散を宣言。ハーグ事件への関与などで懲役20年が確定し、2022年に刑期を終えて出所しました。
重信房子の経歴は、単なる一人の活動家の物語ではありません。
学生運動の急進化、新左翼組織の分裂、パレスチナ問題との接続、国際テロの拡大という、戦後史の複数の問題が交差した事例なのです。