「日本赤軍」と「連合赤軍」は、どちらも1970年代に大きな事件を起こした新左翼系の武装組織です。
名前がよく似ているため、同じ組織の別名、あるいは連合赤軍が日本赤軍へ改称したものだと思われることがあります。しかし、両者は活動した場所も、組織の成り立ちも、起こした事件も異なります。
簡単に整理すると、日本赤軍は主に海外で活動した国際武装組織、連合赤軍は主に日本国内で活動した武装組織です。
ただし、両者には「共産主義者同盟赤軍派」という共通の源流があり、一部の人物が後に日本赤軍へ加わったため、完全に無関係というわけでもありません。
今回は、日本赤軍と連合赤軍の違いを、その成立過程や活動内容から分かりやすく解説します。
日本赤軍と連合赤軍の最大の違い
両者の違いを最初に整理すると、次のようになります。
日本赤軍は、パレスチナ問題などと結び付き、海外を中心に活動しました。空港襲撃、航空機の乗っ取り、在外公館の占拠など、国境を越えた事件を起こしたことで知られています。
一方の連合赤軍は、日本国内で革命を目指した組織です。山岳地帯に拠点を置いて軍事訓練を行い、その過程で仲間に対する暴力的な「総括」が行われました。最終的には、1972年のあさま山荘事件によって広く知られることになります。
つまり、「海外の日本赤軍」「国内の連合赤軍」と覚えると、基本的な違いをつかみやすくなります。
両者に共通する「赤軍派」とは
日本赤軍と連合赤軍を理解するには、その源流となった共産主義者同盟赤軍派、一般に「赤軍派」と呼ばれる組織を知る必要があります。
赤軍派は1969年、共産主義者同盟、いわゆるブントから分かれて結成されました。議会活動による段階的な改革ではなく、武装闘争によって革命を起こそうと考えた急進的なグループです。
しかし、指導部の逮捕や活動家の検挙が続き、組織は次第に複数の方向へ分かれていきました。
その一つが海外に活動拠点を求めた重信房子らのグループで、後の日本赤軍につながります。
もう一つが国内に残り、別の武装組織である京浜安保共闘、正式名称「日本共産党革命左派神奈川県委員会」と合流したグループです。こちらが連合赤軍となりました。
同じ赤軍派から枝分かれした人々が関係しているため、両組織の名称にも「赤軍」が入っているのです。
日本赤軍とはどのような組織だったのか
日本赤軍の中心人物は重信房子です。
重信らは赤軍派の「国際根拠地建設」構想に基づき、1971年にレバノンへ渡り、パレスチナ解放人民戦線、PFLPと関係を築きました。当初は「アラブ赤軍」などの名称を使用し、1974年に名称を日本赤軍へ統一しています。
日本赤軍が目指したのは、海外の革命運動と連携しながら、国際的な武装闘争を展開することでした。
代表的な事件として、1972年のテルアビブ・ロッド空港事件、1974年のハーグ事件、1975年のクアラルンプール事件、1977年のダッカ事件などがあります。
これらの事件では、空港襲撃、航空機の乗っ取り、大使館占拠、人質事件などが発生しました。日本赤軍は海外を主な活動の場としたため、国際社会でも広く知られる存在となりました。
2000年には重信房子が大阪で逮捕され、翌2001年に獄中から組織の解散を宣言しました。組織側もその方針を追認しています。
一方、警察庁は、現在も逃亡中の構成員がいることや、過去の事件に対する組織側の評価などを理由に、引き続き実態解明と検挙に向けた捜査を行っています。
連合赤軍とはどのような組織だったのか
連合赤軍は、国内に残った赤軍派の一部と、京浜安保共闘が合流して1971年に形成された組織です。
赤軍派は都市部での武装闘争を志向し、京浜安保共闘も銃器の奪取などを行っていました。両者は武装革命を目指すという共通点から接近し、統一組織を作りました。
しかし、組織は警察の追及を避けるため山岳地帯へ移動し、閉鎖的な共同生活を送るようになります。
そこで行われたのが「総括」と呼ばれる行為です。本来は自分の思想や行動を振り返る意味の言葉でしたが、連合赤軍内部では、仲間への厳しい批判や暴力を伴うものへ変質しました。
1971年末から1972年初めにかけて、群馬県内の山岳拠点で構成員12人が命を奪われています。
警察の捜査が迫ると、逃走した構成員5人が長野県軽井沢町の保養所に入り、人質を取って立てこもりました。これが1972年2月の「あさま山荘事件」です。
約10日間にわたる立てこもりの末、5人は逮捕されました。その後、山岳拠点で起きていた内部殺人も明らかになり、社会に大きな衝撃を与えました。
主要構成員が相次いで逮捕されたことで、連合赤軍は組織として事実上崩壊しました。
なぜ二つの組織は混同されるのか
混同される最大の理由は、両方の名称に「赤軍」が入っていることです。
さらに、どちらも新左翼運動が激化した同じ時代に登場し、武装革命を主張していました。大きな事件が1972年前後に集中している点も、記憶の中で混ざりやすい原因です。
加えて、両者の母体の一つが共産同赤軍派だったことも関係しています。
ただし、組織の流れを見ると、赤軍派の海外路線が日本赤軍へ、赤軍派の国内残留グループと京浜安保共闘の合流が連合赤軍へつながったと整理できます。
連合赤軍が名称を変えて日本赤軍になったわけではありません。
両組織の間に人的なつながりはあったのか
二つは別組織ですが、後に人的な接点が生まれています。
代表的なのが、連合赤軍の構成員としてあさま山荘事件に関与した坂東國男です。
坂東は逮捕後、1975年に日本赤軍が起こしたクアラルンプール事件で、釈放を要求された収監者の一人となりました。日本政府によって釈放され、出国した後は日本赤軍に合流したとされています。
このように、連合赤軍の元構成員が後から日本赤軍へ加わった事例があります。
そのため、両者を完全に無関係な組織として説明するのも正確ではありません。しかし、これはあくまで後に生じた人的な接点であり、最初から一つの組織だったことを意味するものではありません。
「よど号」グループとも別の組織
もう一つ混同されやすいのが、「よど号」グループです。
1970年、共産同赤軍派の構成員9人が日本航空機を乗っ取り、北朝鮮へ渡りました。これが「よど号ハイジャック事件」です。
よど号グループも赤軍派を源流としていますが、日本赤軍や連合赤軍と同一の組織ではありません。
大まかに分けると、北朝鮮へ向かったのがよど号グループ、中東へ向かった流れが日本赤軍、国内で京浜安保共闘と合流した流れが連合赤軍です。
三者は共通する源流を持ちながら、それぞれ別の場所と方針で活動したグループと考えると理解しやすいでしょう。
日本赤軍と連合赤軍の違いを整理
日本赤軍は、重信房子らを中心に海外で形成され、パレスチナの武装組織と連携しながら国際的な事件を起こした組織です。
連合赤軍は、国内の赤軍派と京浜安保共闘が合流して誕生し、山岳拠点での内部殺人や、あさま山荘事件を起こした組織です。
両者は共産同赤軍派という共通の源流を持っていますが、成立経緯も活動地域も別でした。
日本赤軍は海外、連合赤軍は国内。
この違いを押さえたうえで、赤軍派から複数の流れが生まれたことを理解すれば、複雑に見える組織関係を整理できます。
まとめ
日本赤軍と連合赤軍は、名前こそ似ていますが、同じ組織ではありません。
日本赤軍は海外を拠点として国際的な武装闘争を行い、連合赤軍は日本国内の山岳地帯を拠点として活動しました。
一方で、どちらも共産同赤軍派につながる系譜を持ち、後には構成員の移動もあったため、一定の関係性は存在します。
「同じ組織の改称」ではなく、「共通する源流から生まれた別組織」と理解するのが最も正確です。
この違いを知ることは、個々の事件だけでなく、1960年代末から1970年代にかけて新左翼運動が分裂し、急進化していった歴史を理解するうえでも重要です。