日本の新左翼運動を調べると、「赤軍派」「連合赤軍」「日本赤軍」「よど号グループ」という似た名前の組織が登場します。
いずれも1960年代末に生まれた共産主義者同盟赤軍派と関係していますが、同じ組織ではありません。
活動した場所も異なります。
連合赤軍は日本国内の山岳地帯を拠点とし、日本赤軍は中東を中心に国際的な武装闘争を展開しました。
よど号グループは、1970年に日本航空機をハイジャックして北朝鮮へ渡った赤軍派メンバーと、その後に形成された家族・支援関係者を指します。
三つの組織が同時に、きれいに三分割されたわけでもありません。
赤軍派から異なる時期に人員が離れ、海外へ向かったグループ、国内に残ったグループ、別組織と合流したグループへ分かれていった結果、それぞれ別の道を歩むようになりました。
今回は、赤軍派を出発点として、日本赤軍、連合赤軍、よど号グループがどのように生まれ、何が違うのかを時系列で解説します。
最初に三者の違いを簡単に整理
最も簡単に整理すると、三者の違いは次のようになります。
連合赤軍は、国内に残った赤軍派と革命左派が合流してできた組織です。群馬県の山岳基地で同志に対する粛清を行い、1972年のあさま山荘事件で壊滅状態になりました。
日本赤軍は、重信房子らが中東へ渡り、パレスチナ解放勢力と連携して形成した海外武装組織です。空港襲撃、大使館占拠、航空機ハイジャックなどを起こしました。
よど号グループは、1970年によど号をハイジャックし、北朝鮮へ渡った赤軍派メンバーを中心とする集団です。日本赤軍とは別組織であり、北朝鮮を拠点としてきました。
共通しているのは、いずれも赤軍派の思想や人脈から生まれたという点です。
しかし、指導者、活動拠点、組織構造、起こした事件は異なり、一つの本部から統一的な命令を受けていたわけではありません。
出発点となった共産主義者同盟とは
赤軍派の母体となったのは、共産主義者同盟です。
ドイツ語の名称に由来する「ブント」という通称でも知られています。
共産主義者同盟は、日本共産党の路線に反発した学生運動家らによって1958年に結成され、1960年の安保闘争で大きな役割を果たしました。
1960年安保後にいったん解体状態となりましたが、1966年に再結成されます。こちらは「第二次ブント」と呼ばれます。
ただし、共産主義者同盟は、思想や運動方針の違いを抱えた複数の派閥が集まる組織でした。
議会や大衆運動をどう評価するのか、いつ武装闘争へ移るのか、革命を日本国内だけで考えるのか、それとも世界革命と結びつけるのかをめぐって、内部対立が激しくなります。
その中で、早期の武装蜂起を主張したのが赤軍派です。
なお、共産主義者同盟は日本共産党とは別の新左翼組織です。名称に「共産主義者」と入っているからといって、日本共産党の内部組織だったわけではありません。
共産主義者同盟赤軍派とは
共産主義者同盟赤軍派は、1969年に第二次ブントから分裂する形で成立しました。
中心人物は塩見孝也です。
赤軍派は、通常の大衆運動を積み重ねるだけでは革命は実現できず、革命に先立って武装蜂起を起こす必要があるという「前段階武装蜂起論」を掲げました。
日本で武装蜂起を起こし、それを世界革命へ発展させるという構想です。
赤軍派は、首相官邸や警察施設などを攻撃する計画を立て、爆発物の製造や軍事訓練を進めました。
しかし、1969年11月、山梨県の大菩薩峠付近で軍事訓練を行っていたメンバー53人が一斉に逮捕されます。
大菩薩峠事件と呼ばれるこの大量検挙により、赤軍派は大きな打撃を受けました。
さらに塩見孝也も1970年3月に逮捕され、国内で大規模な武装蜂起を実行する構想は行き詰まります。
そこで赤軍派の一部は、革命運動を続けるための海外拠点をつくろうと考えました。
この「国際根拠地論」が、よど号グループと日本赤軍が生まれる背景になります。
よど号グループとは
1970年3月31日、田宮高麿ら赤軍派メンバー9人が、羽田発福岡行きの日本航空351便をハイジャックしました。
機体の愛称が「よど号」だったため、よど号ハイジャック事件と呼ばれます。
日本で発生した最初の航空機ハイジャック事件です。
犯人グループは当初、キューバへ渡ることも構想していましたが、実際には飛行機を北朝鮮へ向かわせました。
航空機は福岡空港や韓国の金浦空港を経由し、乗客らを解放した後、犯人9人を乗せて北朝鮮へ入りました。
この9人と、後に北朝鮮へ渡った妻子、関係者などを含む集団が「よど号グループ」と呼ばれるようになります。
重要なのは、「よど号グループ」という独立組織が最初から存在し、その組織がハイジャックを命じたわけではないことです。
事件当時の実行犯は赤軍派のメンバーでした。
事件後、北朝鮮に残った実行犯らが独自の集団を形成したため、よど号グループと呼ばれるようになったのです。
よど号グループは日本赤軍ではない
よど号グループと日本赤軍は、海外で活動した点では共通しています。
しかし、拠点も指導者も別です。
よど号グループの中心人物は田宮高麿で、拠点は北朝鮮でした。
日本赤軍の中心人物は重信房子で、主な拠点はレバノンなど中東地域でした。
よど号グループが北朝鮮の体制下で生活するようになったのに対し、日本赤軍はパレスチナ解放人民戦線、PFLPなどと連携して活動しました。
両者の間に思想的、人脈的なつながりが全くなかったとはいえませんが、日本赤軍がよど号グループを指揮していたわけでも、よど号グループが日本赤軍の北朝鮮支部だったわけでもありません。
「海外へ逃れた赤軍派」という共通点から混同されやすいものの、別の集団です。
よど号グループと日本人拉致問題
よど号グループをめぐっては、北朝鮮による日本人拉致への関与も問題となっています。
警察庁は、よど号グループが日本人拉致に深く関与していたと説明しています。
グループ関係者の一部については、欧州で日本人を北朝鮮へ連れ出した結婚目的誘拐事件などの容疑で逮捕状が出され、国際手配されています。
一方、グループ側は拉致への組織的関与を否定してきました。
したがって、個別の事件については、誰にどの容疑がかけられ、どこまで裁判で認定されているのかを分けて考える必要があります。
少なくとも、日本政府と警察は、よど号グループ関係者の引き渡しを北朝鮮側に求め続けています。
北朝鮮に残留しているメンバーの生死についても、複数の情報が出ていますが、北朝鮮から独立して検証できないケースがあります。
国内に残った赤軍派から連合赤軍へ
よど号グループが北朝鮮へ渡った後も、赤軍派のメンバーは国内に残っていました。
しかし、指導者の逮捕や大菩薩峠事件による大量検挙で、組織は資金も人員も不足していました。
国内残留組は、銀行や郵便局を襲撃して活動資金を得る「M作戦」などを行います。
一方、別の新左翼組織である日本共産党革命左派神奈川県委員会、通称「革命左派」も武装闘争を進めていました。
革命左派は銃砲店を襲撃して猟銃や弾薬を奪い、警察から追われていました。
赤軍派には資金があり、革命左派には銃がありました。
両者は共同軍事訓練などを行うようになり、1971年7月、双方の軍事組織を統合して「連合赤軍」を結成しました。
赤軍派側の中心人物が森恒夫、革命左派側の中心人物が永田洋子でした。
なお、革命左派は日本共産党とは別の新左翼組織です。現在の日本共産党が連合赤軍を結成したという意味ではありません。
連合赤軍とは
連合赤軍は、日本国内で武装革命を起こすことを目指した地下組織です。
主な活動場所は、群馬県や長野県などの山岳地帯でした。
警察の捜査を避けるため、メンバーは山中に秘密基地を設け、軍事訓練と共同生活を行いました。
ところが、赤軍派と革命左派では、それまでの組織文化や革命理論が異なっていました。
統合後も対立は解消せず、指導部はメンバーに対して、自分の思想や生活態度を徹底的に反省させる「総括」を要求するようになります。
本来、総括は政治活動を振り返る意味の言葉でした。
しかし、連合赤軍では次第に、殴打、緊縛、食事を与えないといった暴力的な制裁へ変質しました。
1971年末から1972年初めにかけて、山岳基地で12人のメンバーが暴行や放置によって死亡しました。
これとは別に、組織を離脱したとされたメンバー2人も殺害されており、連合赤軍内部では合計14人が命を奪われました。
革命を掲げた組織が、外部の敵ではなく仲間を次々に殺害したのです。
あさま山荘事件と連合赤軍の壊滅
1972年2月、警察の捜査によって山岳基地が発見され、連合赤軍のメンバーは逃走を始めました。
そのうち5人が、長野県軽井沢町にある河合楽器の保養施設「あさま山荘」へ侵入し、管理人の妻を人質に取って立てこもりました。
立てこもりは2月19日から28日まで10日間続き、警察の突入作戦はテレビで長時間生中継されました。
人質は救出され、立てこもった5人は逮捕されましたが、警察官2人と民間人1人が死亡しました。
事件後、山岳基地からメンバーの遺体が次々に発見され、内部粛清の実態が明らかになります。
それまで一部の若者に残っていた新左翼運動への共感は急速に失われました。
連合赤軍は組織として壊滅し、あさま山荘事件と山岳ベース事件は、日本の学生運動、新左翼運動が社会的支持を失う大きな転換点となりました。
重信房子らは中東へ
国内の赤軍派が革命左派との統合へ向かう一方、赤軍派幹部だった重信房子は別の道を選びました。
重信房子と奥平剛士は1971年2月にレバノンへ渡り、パレスチナ解放人民戦線などと連携します。
重信らは、日本国内で直ちに革命を起こすことは困難だと考え、パレスチナ解放闘争に参加しながら国際的な革命運動の拠点を築こうとしました。
これが日本赤軍の母体となります。
日本赤軍の結成時期については、資料によって表現に違いがあります。
重信らがレバノンへ渡って海外拠点を形成した1971年を結成の起点とする説明がある一方、「日本赤軍」という名称を正式に使用するようになった1974年を組織成立の時期とする整理もあります。
初期には「アラブ赤軍」などの名称も使われました。
いずれにしても、日本赤軍は連合赤軍から分裂して海外へ出た組織ではありません。
両者は、共産主義者同盟赤軍派という共通の母体から、ほぼ同じ時期に別々の方向へ進んだ組織です。
日本赤軍とは
日本赤軍は、中東を拠点として「世界革命」や反帝国主義闘争を掲げた国際武装組織です。
連合赤軍が国内の山岳地帯で武装訓練を行ったのに対し、日本赤軍は海外の革命組織と連携し、国境を越えたテロ事件を起こしました。
代表的な事件として、1972年のテルアビブ・ロッド空港事件があります。
岡本公三、奥平剛士、安田安之の3人が空港内で自動小銃を乱射するなどし、多数の一般旅行者を殺傷しました。
この事件はパレスチナ解放人民戦線の作戦として実行され、初期の日本赤軍を世界的に知らしめることになりました。
その後も、1974年のハーグ事件、1975年のクアラルンプール事件、1977年のダッカ日航機ハイジャック事件などが起きました。
日本赤軍は、人質の解放と引き換えに、日本国内で収監されていたメンバーや他の過激派活動家の釈放を要求しました。
日本政府は一部事件で超法規的措置による釈放に応じています。
その結果、もともとは連合赤軍のメンバーだった坂東國男が釈放され、日本赤軍へ合流しました。
このように、後から人員が移動した例があることも、日本赤軍と連合赤軍が混同される原因になっています。
日本赤軍と連合赤軍はどちらが上部組織なのか
日本赤軍と連合赤軍の間に、上部組織と下部組織という関係はありません。
日本赤軍が連合赤軍へ命令を出したわけでも、連合赤軍が日本赤軍の国内支部だったわけでもありません。
双方の源流は赤軍派ですが、組織の形成過程が異なります。
連合赤軍は、赤軍派国内残留組と革命左派の合流によって成立しました。
日本赤軍は、重信房子らの海外活動を基礎に成立しました。
また、重信房子と、国内赤軍派を率いた森恒夫との間には、運動方針をめぐる対立もありました。
「日本赤軍」という名前から、日本に存在したすべての赤軍系組織の本部のように見えますが、そのような関係ではありません。
なぜ三つの組織は別々の道を選んだのか
分岐の背景には、国内での武装革命が急速に行き詰まったことがあります。
1969年の大菩薩峠事件や幹部の逮捕によって、赤軍派は国内で大規模な蜂起を起こす能力を失いました。
そこで、北朝鮮に渡って海外拠点をつくろうとしたのが、よど号実行グループです。
中東のパレスチナ解放闘争に参加し、国際革命運動を展開しようとしたのが、重信房子ら日本赤軍の系統です。
国内に残り、革命左派と武器や資金を共有して地下闘争を続けようとしたのが、連合赤軍の系統です。
つまり三者は、赤軍派が直面した同じ危機に対して、異なる脱出先と活動方法を選んだ結果、生まれたといえます。
三者のその後
連合赤軍は、1972年の大量逮捕と内部粛清の発覚によって、組織として事実上消滅しました。
指導者や主要メンバーは裁判にかけられ、死刑、無期懲役、長期の懲役刑などが確定しました。
日本赤軍は、1980年代以降、パレスチナ情勢の変化や海外メンバーの逮捕によって活動能力を低下させました。
重信房子は2000年に大阪で逮捕され、2001年に獄中から日本赤軍の解散を宣言しました。組織も同年、解散を表明しています。
ただし、過去の事件をめぐって、現在も複数の関係者に対する国際手配が続いています。
よど号グループについても、北朝鮮に残ったメンバーや関係者の問題は解決していません。
ハイジャック事件や拉致への関与が疑われる事件について、日本政府は関係者の引き渡しを求めています。
「赤軍」という言葉だけでは組織を特定できない
当時の新聞やテレビでは、複数の組織がまとめて「赤軍」と呼ばれることがありました。
しかし、歴史を正確に理解するには、どの時期の、どの組織を指しているのかを確認する必要があります。
1969年から1970年ごろの「赤軍」は、共産主義者同盟赤軍派を指すことが多くなります。
1971年以降の国内事件であれば、連合赤軍を指している可能性があります。
中東や欧州、アジアで起きた国際テロ事件であれば、日本赤軍です。
北朝鮮やよど号事件、日本人拉致への関与が問題となっている場合は、よど号グループを指します。
名称が似ているからといって、すべてを「重信房子が率いた日本赤軍」として説明するのは正確ではありません。
まとめ
日本赤軍、連合赤軍、よど号グループは、いずれも共産主義者同盟赤軍派の思想や人脈と関係しています。
しかし、同じ組織ではありません。
よど号グループは、1970年によど号をハイジャックし、北朝鮮へ渡った赤軍派メンバーを中心とする集団です。
連合赤軍は、国内に残った赤軍派と革命左派が1971年に合流してできた組織で、山岳ベース事件とあさま山荘事件によって壊滅しました。
日本赤軍は、重信房子らが中東へ渡り、パレスチナ解放勢力と連携して形成した国際武装組織です。
三者の違いを一言で表すなら、北朝鮮へ渡ったのがよど号グループ、国内の山岳闘争へ向かったのが連合赤軍、中東を拠点に国際武装闘争へ向かったのが日本赤軍です。
ただし、実際には人員の移動や思想上のつながりがあり、完全に無関係だったわけでもありません。
「赤軍派」という共通の源流から、国内、北朝鮮、中東という三つの方向へ枝分かれした歴史として捉えると、関係を理解しやすくなります。