1960年代から1970年代の学生運動や新左翼を調べると、「内ゲバ」という言葉が頻繁に登場します。
特に激しかったのが、中核派と革マル派の対立です。
両派はもともと、革命的共産主義者同盟、略称「革共同」という同じ組織に所属していました。
ところが1963年に分裂すると、大学や学生組織の主導権をめぐって衝突を繰り返し、1970年代には活動家を計画的に襲撃して殺害する報復戦へ発展しました。
なぜ、同じ共産主義革命を掲げていた組織が、国家や資本主義よりも互いを激しく攻撃するようになったのでしょうか。
そこには思想や運動方針の違いだけでなく、どちらが正統な革命組織なのかという争い、学生運動の主導権、相手を「反革命」とみなす論理、報復を止められなくなった組織構造がありました。
今回は、内ゲバの意味と、中核派・革マル派の分裂、殺人を伴う抗争へ至った経緯を解説します。
内ゲバとは何か
内ゲバとは、同じ政治運動の内部や、思想的に近い党派同士で行われる暴力的な抗争を意味します。
「ゲバ」は、ドイツ語で暴力や権力を意味する「ゲバルト」に由来します。
そのため、内ゲバは「内部ゲバルト」を短縮した言葉です。
単なる口論や批判合戦ではなく、一般には殴打、監禁、襲撃、殺人など、物理的な暴力を伴う争いを指します。
日本では特に、1960年代から1980年代にかけて発生した新左翼党派間の暴力事件を表す言葉として定着しました。
内ゲバを起こしたのは中核派と革マル派だけではありません。
共産主義者同盟、革労協、第四インター系、親中国派など、さまざまな党派で分裂と暴力的対立が起きています。
その中でも、中核派と革マル派の抗争は発生件数、期間、死傷者数のいずれも大きく、内ゲバを象徴する事件となりました。
内ゲバと内部粛清の違い
内ゲバと似た言葉に「内部粛清」があります。
内ゲバは、異なる党派や分裂した組織同士による暴力抗争を含む比較的広い言葉です。
一方、内部粛清は、一つの組織が内部の構成員を裏切り者や敵と判断し、制裁を加えることを指します。
連合赤軍の山岳ベース事件では、同じ組織のメンバーが「総括」を要求され、暴行によって12人が死亡しました。これは内ゲバと呼ばれることもありますが、厳密には組織内部の粛清という性格が強い事件です。
これに対して、中核派と革マル派の抗争は、同じ革共同から分裂した二つの党派による組織間抗争です。
なお、どの分類で呼ぶとしても、暴行、監禁、殺人が犯罪であることに変わりはありません。
中核派と革マル派の母体となった革共同
中核派と革マル派の母体は、革命的共産主義者同盟です。
革共同は、ソ連のスターリン体制や日本共産党の指導方針を批判し、世界革命を掲げた新左翼組織でした。
その源流は1957年に結成された日本トロツキスト連盟にあります。組織はその後、革命的共産主義者同盟へ改称しました。
トロツキズムとは、ソ連のスターリン体制を批判し、一国だけで社会主義を完成させるのではなく、国際的な革命を進める必要があるとする考え方です。
しかし、革共同も結成当初から統一されていたわけではありません。
理論、組織運営、国際組織との関係などをめぐって分裂を繰り返し、1959年には黒田寛一や本多延嘉らが「革共同全国委員会」を結成しました。
黒田寛一は後の革マル派、本多延嘉は後の中核派を代表する指導者です。
二人は一時、同じ組織の中で活動していました。
1963年に中核派と革マル派へ分裂
革共同全国委員会では、革命政党の建設と大衆運動の関係をめぐって対立が深まりました。
黒田寛一のグループは、理論と組織を備えた革命党を建設し、ほかの左翼党派の誤りを厳しく批判することを重視しました。
これに対して本多延嘉らは、ほかの党派や活動家とも共同しながら、反戦運動、労働運動、学生運動などの大衆闘争を拡大することを重視しました。
簡単に整理すると、黒田派は革命党の組織建設と理論闘争を、本多派は大衆運動への参加と現実の闘争を、より強く重視したと説明できます。
ただし、これはあくまで対立の概略です。
実際には、どちらが革共同の正統な指導部なのか、学生組織を誰が掌握するのか、ほかの党派と共闘するのかといった組織上の争いも絡んでいました。
1963年2月、革共同全国委員会は二つに分裂します。
本多延嘉らの側が、正式名称「革命的共産主義者同盟全国委員会」、通称「中核派」となりました。
黒田寛一らの側が「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」、通称「革マル派」を結成しました。
「中核派」は、革共同全国委員会の中核を担う勢力という意味です。
「革マル派」は、革命的マルクス主義派を略した名称です。
思想が違うだけで、なぜ暴力になったのか
政治組織が路線の違いによって分裂すること自体は珍しくありません。
中核派と革マル派の対立が暴力へ進んだ大きな理由は、双方が相手を単なる意見の異なる左翼党派ではなく、革命運動を内部から破壊する敵とみなしたことにあります。
革命党は労働者や学生を正しい方向へ導く前衛組織であり、正しい前衛党は一つであるという考え方に立つと、別の路線を掲げる党派は競争相手では済まなくなります。
相手は革命を誤った方向へ導く存在であり、場合によっては権力側に利益を与える「反革命」と位置づけられます。
こうなると、相手への批判は政策論争ではなく、革命運動を守るための排除へ変わります。
双方は自らの暴力を単なる暴行ではなく、「革命運動の防衛」「反革命への制裁」「階級闘争」などと説明しました。
相手を政治的な人間ではなく、排除すべき敵として扱う言葉が、暴力への心理的な抵抗を弱めたのです。
全学連と大学自治会の主導権争い
中核派と革マル派の対立には、学生運動の主導権争いも大きく関係しています。
両派はそれぞれ学生組織を持ち、全学連や各大学の自治会で影響力を拡大しようとしました。
当時の学生自治会は、大学側との交渉、集会の開催、学生会館や自治会室の管理、学生から集めた自治会費の運用などを行っていました。
自治会を掌握すれば、活動場所、資金、機関紙の販売網、新入生を勧誘する機会を確保できます。
そのため、大学の自治会や全学連の執行部をどの党派が握るかは、組織の存続に直結する重要な問題でした。
集会の演壇を誰が使うのか、デモ隊を誰が指揮するのか、自治会室をどの党派が管理するのかといった争いが、暴力的な排除に発展しました。
当初の内ゲバには、集会やデモで偶然鉢合わせした活動家が、角材や鉄パイプで衝突する形が多く見られました。
しかし、対立が激しくなると、相手党派の指導者や活動家の住所と行動を調べ、待ち伏せして襲撃する計画的な犯行へ変化していきます。
全共闘運動でも両派は対立した
1960年代後半には、全国の大学で学費値上げ、大学運営、学生処分などに反対する大学紛争が拡大しました。
各大学では「全学共闘会議」、いわゆる全共闘が組織されます。
中核派は、ほかの新左翼党派やノンセクトの学生と共闘し、羽田闘争、ベトナム反戦運動、全共闘運動などへ積極的に参加しました。
革マル派も学生運動へ参加しましたが、ほかの党派の運動方針を批判し、独自の組織建設を重視しました。
中核派などは、革マル派について、大衆闘争を外から批判し、運動を分裂させていると非難しました。
革マル派は逆に、中核派などの行動を、理論や組織原則を欠いた冒険主義だと批判しました。
どちらが革命運動を前進させ、どちらが妨害しているのかという対立が、大学構内での主導権争いと結びつきました。
1970年の海老原事件が転換点
中核派と革マル派の対立が、殺人を伴う報復戦へ発展する大きな転換点となったのが、1970年8月の海老原事件です。
革マル派の活動家だった東京教育大学生の海老原俊夫が、中核派系活動家による暴行を受けて死亡しました。
それ以前にも新左翼党派間の暴力事件は起きていましたが、海老原事件以後、中核派と革マル派は互いの活動家を意図的に襲撃する報復戦へ進んでいきます。
革マル派は海老原の殺害に対する報復を掲げ、中核派側も革マル派を革命運動から排除する対象として位置づけました。
一度死者が出ると、双方の組織内では「仲間を殺された以上、報復しなければならない」という圧力が生まれます。
攻撃を受けても反撃しなければ、組織が弱いと見られ、構成員の離脱や勢力低下につながると考えられました。
この組織防衛の論理によって、一つの襲撃が次の報復を生むようになります。
早稲田大学・川口大三郎事件
内ゲバの被害は、両派の中心的な活動家だけにとどまりませんでした。
1972年11月、早稲田大学の学生だった川口大三郎が、革マル派系の学生から中核派のスパイではないかと疑われ、暴行を受けて死亡しました。
川口は革マル派と敵対する党派の中心活動家ではなく、特定党派に所属しない学生だったとされています。
この事件に対し、早稲田大学では多くの一般学生が革マル派を批判し、自治会支配を問い直す運動が起こりました。
川口事件は、党派が掲げる「スパイ」「敵対分子」という認定が、十分な根拠や公正な手続きを欠いたまま、一般学生への暴力に結びつく危険を示しました。
内ゲバは革命運動内部の問題にとどまらず、周囲の学生や市民を巻き込む犯罪になっていたのです。
「スパイ」認定が暴力を正当化した
中核派と革マル派は、互いに相手側へ警察の協力者やスパイが入り込んでいると主張しました。
党派の内部でも、情報が漏れた場合や指導部を批判した活動家について、スパイではないかと疑うことがありました。
もちろん、警察が過激派の情報収集や捜査を行っていたこと自体は事実です。
しかし、個々の活動家が本当に警察の協力者だったのかという問題と、党派側が政治的な敵をスパイと呼んだことは分けて考える必要があります。
党派自身の主張だけで、スパイだったと断定することはできません。
それでも、閉鎖的な組織では「スパイの疑い」が暴力を正当化する言葉として使われました。
相手をスパイと認定すれば、襲撃や監禁を革命運動の防衛として説明できてしまいます。
この論理は、反対意見を述べる人や脱退しようとする人まで敵として扱う危険を生みました。
1975年、本多延嘉書記長が殺害される
中核派と革マル派の内ゲバが頂点に達したのが1974年から1975年です。
1975年3月14日、革マル派の活動家らが埼玉県川口市のアパートを襲撃し、中核派書記長の本多延嘉を殺害しました。
本多は中核派の最高指導者であり、1963年の分裂以来、組織を率いてきた人物です。
警察白書によると、革マル派の十数人が、就寝中の本多を鉄パイプやまさかりなどで襲撃しました。
革マル派は事件後、「中核派解体闘争」の勝利を主張して、内ゲバの停止を表明しました。
しかし、最高指導者を殺害された中核派が一方的な停止を受け入れることはありませんでした。
中核派は革マル派への全面的な報復を宣言し、抗争はさらに激化します。
1975年には内ゲバ殺人事件が16件発生し、20人が死亡しました。中核派と革マル派の抗争によるものは、このうち12件、死者16人を占めています。
警察白書は、内ゲバが頂点に達した1974年と1975年の2年間だけで、死者31人、負傷者1,150人を記録したとしています。
実際にはどれほどの被害が出たのか
警察白書によると、1969年から1978年末までに、各新左翼党派による内ゲバ事件は1,864件発生しました。
死傷者は4,497人で、このうち死者は64人です。
これは中核派と革マル派だけでなく、革労協など別党派の抗争や組織内対立も含んだ数字です。
それでも、多くの年で中核派と革マル派の抗争が内ゲバ事件の大きな割合を占めました。
襲撃には鉄パイプ、ハンマー、角材などが使用されました。
相手を死亡させるだけでなく、頭部や手足の関節を集中的に攻撃し、活動へ復帰できない状態にすることを狙った事件もありました。
尾行、盗聴、住所の調査、待ち伏せなどを行った上で、相手の自宅や通勤途中を襲う事件も発生しています。
これは学生集会で偶然発生した衝突ではなく、非公然部隊によって準備された組織的な襲撃でした。
なぜ報復を止められなかったのか
中核派と革マル派が報復を止められなかった理由は、大きく五つに整理できます。
第一は、双方が自分たちこそ革共同の正統な後継組織だと考えていたことです。
政治的な立場が遠い相手よりも、同じ組織から分裂した相手の方が、活動家や支持基盤を奪い合う直接の競争相手になります。
第二は、大学自治会、全学連、労働組合などの主導権争いです。
相手党派の影響力拡大は、自分たちの活動場所、資金、人員の減少につながりました。
第三は、相手を「反革命」と規定したことです。
異なる意見を持つ仲間ではなく、革命運動を破壊する敵とみなすことで、暴力が政治活動として正当化されました。
第四は、組織の面子と防衛です。
攻撃されても反撃しなければ、組織の権威が失われると考えられました。報復が新たな報復を生み、途中でやめること自体が敗北と受け取られるようになります。
第五は、街頭闘争を通じて暴力への抵抗感が低下していたことです。
警察との衝突で使われたヘルメット、角材、火炎瓶などが、やがてほかの党派へ向けられました。
警察白書も、70年安保という共通目標が失われたことや、集団武装闘争の中で流血を伴う暴力への抵抗感が弱くなったことを、内ゲバ激化の背景として挙げています。
内ゲバは思想対立だったのか、縄張り争いだったのか
中核派と革マル派の対立には、革命理論や組織論の違いが存在しました。
しかし、1970年代の殺人事件を、思想の違いだけで説明することはできません。
実際の抗争では、大学、自治会、学生寮、労働組合、集会の主導権など、具体的な組織基盤をめぐる争いが大きな意味を持っていました。
また、報復が続くにつれて、当初の理論対立よりも「誰が誰を殺したのか」という組織の被害記憶が強くなります。
活動家にとっては、自分の仲間を殺害した党派と協力することは裏切りと受け取られました。
こうして、思想対立、組織間競争、復讐感情が分離できない状態になりました。
「理論論争が暴力になった」というより、理論上の対立に組織の利害と報復の連鎖が重なり、党派間戦争へ変質したと考える方が実態に近いでしょう。
内ゲバは警察が仕組んだものなのか
新左翼党派の中には、対立の背後に警察や公安機関の工作があったと主張するものがあります。
警察が各党派について情報収集し、活動家を捜査していたことは事実です。
しかし、中核派と革マル派の抗争全体が、警察によって作り出されたと証明する公的資料は確認されていません。
両派は機関紙や声明で、自ら相手党派への攻撃や報復を政治闘争として位置づけていました。
個別の情報提供者や捜査協力者が存在した可能性と、数十年に及ぶ抗争全体を外部機関が指揮していたという主張は、分けて考える必要があります。
裏付けのない工作説だけで内ゲバを説明すると、暴力を決定し実行した各組織の責任が見えにくくなります。
内ゲバが学生運動に与えた影響
内ゲバは、新左翼と学生運動への社会的な信頼を大きく失わせました。
大学改革、ベトナム反戦、労働問題、成田空港建設など、個別の運動に一定の社会的支持があったとしても、党派同士が殺人を繰り返せば、一般の学生や市民は運動から離れていきます。
大学では、一般学生が党派に近づくことを避けるようになりました。
運動内部でも、公開討論より、所属確認、尾行への警戒、スパイの摘発、拠点の防衛が重視されるようになります。
組織を守るための活動が中心となり、本来訴えようとしていた政治課題は後景へ退きました。
国家権力との闘争を掲げながら、実際には同じ新左翼の活動家を攻撃することに人員と資金を費やした点は、内ゲバの大きな矛盾です。
結果として、内ゲバは対立する党派を弱体化させただけでなく、新左翼運動全体を孤立させました。
中核派と革マル派は現在も存在するのか
中核派と革マル派は、現在も別々の組織として存在しています。
公安調査庁の2026年の公表資料でも、両派がそれぞれ集会やデモを実施していることが確認できます。
ただし、1970年代のような多数の死者を出す大規模な内ゲバは大幅に減少しています。
中核派は機関紙「前進」を発行し、反戦、労働運動、学生運動などに取り組んでいます。
革マル派は機関紙「解放」を発行し、反戦運動や労働運動などを展開しています。
現在の活動を評価する際も、各団体自身の説明、警察・公安機関の評価、具体的な事件や判決を区別して確認する必要があります。
過去に所属した人物や、関係する運動へ参加した人物を、根拠なく暴力事件の実行者と決めつけることも避けなければなりません。
まとめ
内ゲバとは、同じ政治運動の内部や思想的に近い党派同士で行われる暴力的な抗争です。
中核派と革マル派は、もともと革命的共産主義者同盟全国委員会という同じ組織に所属していました。
1963年、革命党の建設、大衆運動、他党派との共闘、組織の主導権などをめぐる対立から、中核派と革マル派へ分裂します。
当初は大学自治会や全学連の主導権争いを中心とする衝突でしたが、1970年の海老原事件以後、活動家を計画的に襲撃する報復戦へ発展しました。
1975年には革マル派によって中核派書記長の本多延嘉が殺害され、中核派が全面報復を宣言します。
対立が激化した理由は、思想の違いだけではありません。
どちらが革共同の正統な後継者なのかという争い、大学や労働組合の組織基盤、相手を反革命やスパイとみなす論理、仲間を殺されたことへの報復が重なっていました。
内ゲバは、革命を目指す運動が内部の敵をつくり、組織防衛と復讐を優先した結果、運動そのものを衰退させた歴史でもあります。
中核派と革マル派の違いを理解するには、理論だけでなく、分裂後の主導権争いと暴力の連鎖を見る必要があります。