戦後の学生運動や新左翼の歴史を調べると、「ブント」という名前が繰り返し登場します。
赤軍派、日本赤軍、連合赤軍、よど号グループなどとの関係から、ブント自体が武装組織だった、あるいはブントがそのまま日本赤軍へ名前を変えたと理解されることもあります。
しかし、これは正確ではありません。
ブントとは、1958年に結成された「共産主義者同盟」の通称です。1960年の安保闘争で大きな役割を果たした後に一度崩壊し、1966年に「第二次ブント」として再建されました。
赤軍派は、その第二次ブントから1969年に分裂した一派です。
さらに赤軍派から、北朝鮮へ渡ったよど号グループ、中東を拠点とした日本赤軍、国内で別組織と合流した連合赤軍へと流れが枝分かれしました。
つまり、歴史の順序は「ブント=日本赤軍」ではなく、「第二次ブントの一部から赤軍派が生まれ、赤軍派から複数の流れが派生した」と整理する必要があります。
今回は、ブントの成立から赤軍派、日本赤軍が生まれるまでの経緯を、組織の分裂に沿って解説します。
ブントとは何か
ブントは、正式名称を「共産主義者同盟」とする日本の新左翼党派です。
「Bund」はドイツ語で「同盟」「連盟」を意味します。共産主義者同盟をドイツ語風に呼んだ名称が定着し、「共産同」と略されることもあります。
日本のブントは1958年12月10日、日本共産党の指導方針に反発した学生運動家らを中心に結成されました。
中心人物の一人が島成郎です。国立国会図書館が所蔵する島成郎関係資料でも、1958年のブント結成、全学連を通じた安保闘争の指導、安保闘争後の崩壊という経歴が確認できます。
ブントは、既成の日本共産党とは別に革命運動を進めようとした組織でした。このように、既成共産党の路線に反対して登場した左翼勢力は、一般に「新左翼」と呼ばれます。
ただし、新左翼全体がブントだったわけではありません。
中核派や革マル派につながる革命的共産主義者同盟、革労協、日本共産党革命左派などは、それぞれ異なる組織的系譜を持っています。
なぜ日本共産党から離れたのか
ブントが生まれた背景には、1950年代の日本共産党をめぐる混乱がありました。
日本共産党は1950年代前半、武装闘争を含む急進的な方針を採用しましたが、1955年の第6回全国協議会、いわゆる六全協を機に方針を転換しました。
党の影響下にあった学生運動の内部では、それまでの指導への不信と、新たな党方針への反発が広がります。
さらに、ソ連のスターリン批判や1956年のハンガリー動乱などにより、ソ連や各国共産党を無条件に支持する姿勢への疑問も強まりました。
全学連で活動していた一部の学生は、日本共産党について、議会や組織防衛を重視しすぎて革命運動を抑制していると批判しました。
こうした学生運動家や党から除名・離脱した活動家が、新しい革命組織として結成したのがブントです。
ブントは日本共産党の青年部や学生部ではなく、最初から同党とは別の政治組織でした。
第一次ブントと60年安保闘争
1958年に成立した最初のブントは、後の第二次ブントと区別して「第一次ブント」と呼ばれます。
第一次ブントの大きな特徴は、結成時の規模に比べ、学生運動への影響力が非常に強かったことです。
ブントの学生組織である社会主義学生同盟、略称「社学同」は、全日本学生自治会総連合、いわゆる全学連の主導権を握り、1960年の日米安全保障条約改定反対運動を推進しました。
ブントは、請願や議会内の反対だけでは条約改定を止められないと考え、国会周辺での実力行動を重視しました。
1960年6月15日には、全学連の学生らが国会構内へ入り、警察との激しい衝突が発生しました。この過程で東京大学学生の樺美智子が死亡します。
安保条約の改定そのものは阻止できませんでしたが、大規模な抗議運動は岸信介内閣の退陣につながりました。
一方、ブント内部では運動の評価をめぐる対立が深刻化します。
「岸内閣を退陣させた大衆運動」と評価するのか、「条約改定を止められなかった敗北」と考えるのか。さらに、今後も学生運動を中心にするのか、労働者による革命政党を建設するのかをめぐって意見が分かれました。
その結果、第一次ブントは60年安保闘争後、複数の派閥やグループに分裂し、統一組織としては崩壊しました。
第一次ブントと第二次ブントは同じ組織なのか
1966年、第一次ブントの流れをくむ複数のグループが再結集し、共産主義者同盟を再建しました。
これが「第二次ブント」です。
同じ名称を使用し、第一次ブントの運動を継承しようとした点では連続性があります。
しかし、第一次ブントがそのまま存続し続けたわけではありません。60年安保後の分裂を経て、別々に活動していたグループが再び集まって成立した組織です。
第二次ブントが結成された1960年代後半には、ベトナム戦争への反対運動、羽田闘争、大学紛争、全共闘運動などが拡大していました。
第二次ブントはこうした運動へ積極的に参加し、再び学生運動の主要党派の一つとなります。
ただし、組織内部には、革命が起きる時期、労働者と学生の役割、街頭闘争の進め方、武装闘争への移行などをめぐる複数の考え方が存在しました。
第二次ブントは強固に統一された一枚岩の政党というより、異なる潮流が同居する連合体に近い性格を持っていたのです。
赤軍派はなぜ第二次ブントから分裂したのか
第二次ブントの内部で、特に急進的な武装闘争を主張したグループが「赤軍派」です。
中心人物は塩見孝也でした。
赤軍派は、街頭での抗議活動を続けるだけでは革命を実現できず、早い段階から革命のための軍隊を建設し、武装蜂起へ進む必要があると主張しました。
この考え方は「前段階武装蜂起論」と呼ばれます。
一般的な革命理論では、政治・経済上の危機が深まり、多数の労働者や市民が革命を支持する状況を待って武装蜂起へ進むと考えます。
これに対して赤軍派は、先に武装組織をつくって攻撃を開始することが、革命情勢を引き起こす契機になると考えました。
さらに、日本一国だけでなく、各国の革命運動を結び付ける「世界革命戦争」や「世界赤軍」の構想を掲げました。
第二次ブントのほかの派閥は、この路線を現実離れした軍事主義だと批判しました。理論論争だけでなく、組織の主導権争いや活動家同士の暴力的衝突も起こり、対立は修復できない状態になります。
1969年、赤軍派は第二次ブントから分裂し、「共産主義者同盟赤軍派」として独自に活動するようになりました。
重要なのは、ブント全体が赤軍派になったわけではないという点です。
赤軍派は第二次ブントから生まれた一分派であり、ブント系の活動家の中には赤軍派の武装路線に反対した人も多くいました。
赤軍派は何をしようとしたのか
赤軍派は1969年、「大阪戦争」「東京戦争」などと称して警察施設への攻撃や武装行動を進めました。
同年11月には、首相官邸などの襲撃を想定した軍事訓練を山梨県の大菩薩峠周辺で実施しようとしました。
しかし、警察が訓練場所を捜索し、参加者53人を逮捕します。これが大菩薩峠事件です。
さらに1970年3月には塩見孝也が逮捕され、赤軍派は指導部と多数の活動家を失いました。
国内で武装蜂起を実行するという構想は、警察による相次ぐ摘発によって行き詰まります。
そこで赤軍派の一部は、海外に革命の拠点をつくり、軍事訓練を受けた活動家を日本へ戻すという「国際根拠地建設」へ向かいました。
この海外拠点構想が、その後のよど号グループと日本赤軍につながります。
一方、国内に残った別のメンバーは、日本共産党革命左派神奈川県委員会と接近します。こちらの流れが連合赤軍へ向かいました。
よど号グループはどのように生まれたのか
1970年3月31日、赤軍派の田宮高麿ら9人が、日本航空351便、通称「よど号」をハイジャックしました。
犯行グループは乗客と乗員を人質にして北朝鮮へ向かうことを要求し、最終的に北朝鮮へ入境しました。
目的は北朝鮮を革命運動の根拠地にすることでした。
しかし、北朝鮮へ渡ったメンバーは、その後、日本国内の赤軍派や中東の日本赤軍とは別の集団として活動するようになります。
このため、「よど号グループ」は日本赤軍の別名ではありません。
出発点は共産同赤軍派で共通しますが、その後の拠点、指導者、組織、活動経路は異なります。
また、警察当局は、よど号グループの関係者について、日本人拉致事件への関与が疑われる者がいるとして捜査を続けています。
日本赤軍はどのように生まれたのか
赤軍派のもう一つの海外拠点構想を進めたのが重信房子らです。
重信らは1971年にレバノンへ渡り、パレスチナ解放人民戦線、PFLPと接触しました。
警察庁は、重信らが赤軍派の「国際根拠地建設」構想に基づいてレバノンへ出国し、赤軍派アラブ支部を設けたことを日本赤軍形成の出発点と説明しています。
当初は「赤軍派アラブ支部」や「アラブ赤軍」などの名称が使われました。その後、日本国内の赤軍派から独立し、国外向けに「日本赤軍」を名乗るようになります。
日本赤軍は1972年5月、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港で自動小銃を乱射する事件を起こし、多数の死傷者を出しました。
その後も、在外公館占拠、航空機ハイジャック、人質事件などを各国で引き起こします。
日本赤軍は2001年に解散を表明しましたが、警察は解散表明後も逃亡中の関係者を国際手配しています。
したがって、日本赤軍はブントの単なる改称ではありません。
「第二次ブントから赤軍派が分裂し、その赤軍派の海外部門が独立して日本赤軍へ発展した」というのが、より正確な関係です。
連合赤軍は日本赤軍と何が違うのか
日本赤軍が海外へ向かったのに対し、国内に残った赤軍派の一部は「革命左派」と呼ばれる別系統の組織と接近しました。
正式には、日本共産党革命左派神奈川県委員会の非公然軍事組織である人民革命軍と、共産同赤軍派の中央軍が合流し、1971年7月に連合赤軍が成立しました。
革命左派は、ブントから分裂した組織ではありません。
そのため連合赤軍は、赤軍派だけが名称を変更した組織ではなく、系譜の異なる二つの武装組織による合流組織です。
連合赤軍は山中に拠点を置き、軍事訓練と組織の統合を進めました。
しかし、内部では「総括」の名の下にメンバーへの暴行が行われ、12人が死亡する山岳ベース事件に至ります。
1972年2月には、警察に追われたメンバー5人が長野県の浅間山荘へ立てこもる事件を起こしました。
連合赤軍はこの一連の事件によって事実上壊滅します。
名称は似ていますが、日本赤軍と連合赤軍は別組織です。
日本赤軍は中東を拠点とした国際武装組織、連合赤軍は国内で赤軍派と革命左派が合流してできた組織と区別できます。
ブントから生まれた三つの赤軍系グループ
ブントから赤軍系組織へ至る流れは、次のように整理できます。
1958年に第一次共産主義者同盟、第一次ブントが結成されました。
第一次ブントは60年安保闘争後に崩壊し、その流れをくむ複数のグループが1966年に第二次ブントを再建しました。
1969年、第二次ブント内部の最急進派が分裂し、共産同赤軍派を結成しました。
その後、赤軍派の流れは大きく三つに分かれます。
一つ目は、1970年によど号をハイジャックして北朝鮮へ渡った、よど号グループです。
二つ目は、1971年から中東に拠点を築き、日本赤軍へ発展した重信房子らのグループです。
三つ目は、国内に残って革命左派と合流し、連合赤軍を結成したグループです。
三者は同じ赤軍派を出発点の一つとしていますが、その後は別々の組織になりました。
なぜブントは分裂を繰り返したのか
ブントが分裂を繰り返した背景には、単なる人間関係だけではなく、革命戦略をめぐる根本的な違いがありました。
第一に、革命の主体を学生に求めるのか、労働者階級を中心とするのかという対立です。
第二に、幅広い大衆運動を積み上げるのか、少数の先鋭的な活動家が先に行動するのかという違いがありました。
第三に、議会や合法運動をどう評価するか、警察との衝突や武装闘争をどの段階で採用するかについても一致していませんでした。
第四に、日本国内の革命を優先するのか、ベトナム戦争やパレスチナ問題などと結び付けた世界革命を目指すのかという対立もありました。
さらに、学生運動の急速な拡大によって、組織の統制や理論形成が追い付かなかった面もあります。
共通の敵や目前の闘争がある間は協力できても、運動が後退すると、路線の違いが組織の分裂として表面化しました。
赤軍派は、こうした第二次ブント内部の対立が最も急進的な形で現れた一例です。
ブントの活動家は全員が赤軍派になったのか
ブント出身者が全員、赤軍派や日本赤軍に参加したわけではありません。
赤軍派は第二次ブントを構成していた複数の潮流の一つにすぎず、その武装路線に反対した活動家もいました。
第二次ブントの解体後には、戦旗派をはじめ、さまざまな共産同系の党派や政治グループが生まれました。
その後、合法的な政治運動、市民運動、労働運動、出版・言論活動へ進んだ元活動家もいます。政治運動から完全に離れた人も少なくありません。
したがって、「ブントに参加していた」という事実だけから、その人物が日本赤軍や連合赤軍を支持していたと判断することはできません。
組織の所属時期と、その時点でどの派閥に属していたのかを分けて確認する必要があります。
ブントと全共闘の違い
ブントと全共闘も混同されることがあります。
ブントは一定の思想、綱領、組織を持つ政治党派です。
一方の全共闘は、大学ごとの問題をめぐって学生がつくった闘争組織の総称で、全国を統一する一つの政党ではありません。
全共闘には、ブント、中核派、革マル派などの党派に属する学生だけでなく、特定党派に所属しない学生も参加していました。
第二次ブントは全共闘運動に大きな影響を与えた党派の一つですが、ブントと全共闘が同じ組織だったわけではありません。
ブントの歴史をどう理解すべきか
ブントは、戦後日本の学生運動と新左翼運動を考えるうえで重要な組織です。
60年安保闘争では、若い学生を中心とする行動的な政治運動を生み出し、既成政党に依存しない大衆運動の広がりに影響を与えました。
一方、第二次ブントの一部からは、武装闘争を急ぐ赤軍派が登場しました。
赤軍派の路線は、大菩薩峠事件、よど号ハイジャック事件、連合赤軍事件、日本赤軍による国際テロへとつながり、多数の犠牲者を生みました。
ただし、その結末だけからブントの全歴史を逆算すると、60年安保運動、学生自治、反戦運動、既成左翼への批判など、ブントが生まれた当時の社会的背景を見失います。
同時に、当初は社会変革を目指した運動だったとしても、目的によって暴力やテロが正当化されるわけではありません。
思想上の理想、組織の歴史、実際に起きた犯罪と被害を区別して検証することが重要です。
まとめ
ブントとは、1958年に日本共産党の指導へ反発した学生運動家らが結成した共産主義者同盟の通称です。
第一次ブントは60年安保闘争で全学連を主導しましたが、闘争後の路線対立によって崩壊しました。
1966年には、第一次ブントの流れをくむ複数のグループが第二次ブントを再建します。
その内部から1969年、早期の武装蜂起と世界革命戦争を主張する共産同赤軍派が分裂しました。
赤軍派はその後、北朝鮮へ渡ったよど号グループ、中東で日本赤軍を形成したグループ、国内で革命左派と合流して連合赤軍を結成したグループへ枝分かれします。
ブント、日本赤軍、連合赤軍、よど号グループは、歴史的なつながりはあるものの同一組織ではありません。
「第一次ブントから第二次ブントへ」「第二次ブントから赤軍派へ」「赤軍派から三つの流れへ」という段階を分けることが、新左翼と赤軍派の歴史を理解するポイントです。