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日本共産党と新左翼は何が違う?なぜ互いに激しく対立したのか

日本共産党と新左翼は、どちらも資本主義を批判し、社会主義や共産主義を掲げてきた左翼勢力です。

そのため、「同じ共産主義者なのだから協力関係にあったのではないか」と思われることがあります。

しかし、実際の関係は逆です。

日本の新左翼は、1950年代後半、日本共産党の方針や組織運営を批判した学生党員や活動家が、党を離脱・除名される過程で形成されました。

つまり新左翼は、日本共産党から派生した面を持ちながら、同時に「反日本共産党」を出発点とする勢力でした。

新左翼側は日本共産党を「スターリン主義」「修正主義」「議会主義」と批判し、日本共産党側は新左翼を「トロツキスト」「ニセ左翼暴力集団」などと批判しました。

思想上の違いだけでなく、学生自治会、労働組合、反戦運動の主導権を争ったため、1960年代には大学内で実際の暴力衝突にまで発展しています。

両者の対立を理解するには、「穏健な共産党と過激な新左翼」という単純な比較ではなく、日本共産党自身が経験した1950年代の分裂と武装闘争路線、その後の急転換から見る必要があります。

日本共産党と新左翼の違い

最初に、両者の基本的な違いを整理します。

項目日本共産党新左翼
成立1922年に結成主に1950年代後半以降に形成
組織全国的な一つの政党多数の党派・グループの総称
政治活動選挙、国会、地方議会、大衆運動学生運動、労働運動、街頭闘争、直接行動など
革命への道国民多数の支持と議会での多数獲得を重視議会外闘争や直接行動を重視する党派が多い
当面の目標資本主義の枠内での民主的改革を経て、将来の社会主義を展望社会主義革命、反帝国主義闘争、世界革命など党派によって異なる
ソ連・スターリンへの評価1960年代以降はソ連、中国と対立し自主独立路線中心的党派は日本共産党をスターリン主義として批判
暴力との関係現在は選挙と平和的・合法的な社会変革を公式方針とする一部党派は集団的な実力闘争、テロ、ゲリラ、内ゲバへ進んだ
代表例日本共産党ブント、中核派、革マル派、革労協、赤軍派など

最も重要な違いは、日本共産党が現在も選挙に候補者を立てる一つの政党であるのに対し、新左翼は特定の一団体の名称ではないことです。

「新左翼」という名前の政党があるわけではありません。

日本共産党や日本社会党などの既成左翼を批判し、1950年代後半から登場した急進的な党派、学生組織、政治運動をまとめて新左翼と呼びます。

日本共産党とは

日本共産党は1922年に結成された政党です。

戦前は非合法とされ、治安維持法による激しい弾圧を受けましたが、敗戦後の1945年に合法政党として活動を再開しました。

現在の日本共産党は国政選挙や地方選挙に候補者を立て、国会と地方議会で活動しています。

公式綱領では、現在の日本に必要なのは直ちに社会主義革命を行うことではなく、資本主義の枠内で政治、経済、社会の民主的改革を進めることだとしています。

将来、社会主義へ進む場合も、国民多数の支持を前提とし、議会制民主主義、複数政党制、政権交代制を維持すると明記しています。

したがって、現在の日本共産党が公表している路線は、武装蜂起によって政権を奪取するというものではありません。

ただし、日本共産党の歴史に武装闘争がまったく存在しなかったわけではありません。

この1950年代初頭の武装闘争をどのように評価するかが、後に新左翼が生まれる大きな原因になりました。

新左翼とは

新左翼とは、日本共産党や日本社会党などを「旧左翼」「既成左翼」と批判して登場した政治勢力の総称です。

主な党派には、次のようなものがあります。

・革命的共産主義者同盟

・共産主義者同盟、通称ブント

・革共同全国委員会、通称中核派

・革共同革命的マルクス主義派、通称革マル派

・革命的労働者協会、通称革労協

・共産主義者同盟赤軍派

ただし、これらの党派は思想も組織も別です。

「新左翼全体を統率する本部」が存在したわけではなく、むしろ新左翼同士も激しく対立しました。

反スターリン主義を掲げる党派、トロツキーの永続革命論に影響を受けた党派、毛沢東思想を支持する党派、特定の外国政党に属さないブント系党派などが混在しています。

全共闘やノンセクト・ラジカルと呼ばれた学生も、必ずしも新左翼党派の正式な構成員ではありません。

「新左翼」「全共闘」「全学連」「過激派」は重なる部分がありますが、すべて同じ意味ではないのです。

対立の出発点となった「50年問題」

両者の対立を理解するうえで重要なのが、日本共産党の「50年問題」です。

1949年の衆議院選挙で議席を大きく増やした日本共産党は、占領下でも平和的に革命へ進める可能性を主張していました。

ところが1950年、ソ連共産党を中心とするコミンフォルムが、日本共産党の平和革命論を厳しく批判します。

これをきっかけに党内が分裂しました。

徳田球一らの「所感派」と、宮本顕治らの「国際派」が対立し、所感派側は1951年に武装闘争を志向する文書と軍事方針を採用しました。

その結果、山村工作隊、中核自衛隊、火炎瓶を用いた闘争などが展開されました。

この時期の方針について、現在の日本共産党は、ソ連や中国の干渉に従った分派が党に押し付けたものであり、正規の党機関が決めた方針ではなかったと説明しています。

一方、警察白書や一般的な戦後政治史では、日本共産党が「51年綱領」と軍事方針を採用した時期として記述されることがあります。

評価には立場の違いがありますが、党が分裂状態にあり、その一方の指導部の下で実際に武装闘争が行われたことは共通しています。

六全協による路線転換が学生に衝撃を与えた

武装闘争は市民から支持されず、日本共産党は1952年の衆議院選挙で公認候補が全員落選する大敗を喫しました。

1955年、日本共産党は第6回全国協議会、通称「六全協」を開き、党の統一を回復するとともに、それまでの極左冒険主義的な方針を修正しました。

1956年の中央委員会総会では、議会を通じた平和的な革命が可能だとし、「51年文書」を日本の現状に適合しないものとして否定しました。

さらに1961年の第8回党大会で、国民多数の支持と議会での多数獲得を重視する綱領路線が確立されます。

しかし、この転換は学生党員たちに大きな衝撃を与えました。

党の方針を信じ、退学や逮捕の危険を負いながら活動してきた学生から見れば、指導部が突然それまでの方針を誤りと認めたことになります。

「なぜ武装闘争を指示したのか」「誰が責任を取るのか」「今度の方針も再び変更されるのではないか」という不信が広がりました。

これが「六全協ショック」と呼ばれるものです。

新左翼は、単に日本共産党より暴力的な人々が集まって誕生したのではありません。

日本共産党の方針転換と、上意下達的な組織運営への反発から生まれたという背景があります。

革共同とブントの結成

1957年、日本トロツキスト連盟が結成され、間もなく革命的共産主義者同盟、略称・革共同へ改称しました。

スターリンによるソ連の官僚支配を批判し、世界革命を主張したトロツキーの理論から影響を受けた組織です。

1958年には、日本共産党から除名・離党した全学連の学生活動家らが、共産主義者同盟、通称ブントを結成しました。

ブントはドイツ語で「同盟」を意味します。

ブントの中心となった学生たちは、日本共産党を、革命を先送りして選挙活動に傾斜する官僚的な党だと批判しました。

一方、日本共産党は、こうした学生党員の独自活動を、党の規律に反する分派活動だとみなしました。

ここで両者の関係は、党内論争から完全な別組織同士の対立へ変わります。

1960年安保闘争で対立が決定的に

日本共産党と新左翼の対立が公然化したのが、1960年の日米安全保障条約改定反対運動です。

日本共産党は労働組合、社会党、市民団体などと幅広く連携し、請願、集会、デモを積み重ねる大衆運動を重視しました。

これに対し、ブントが主導権を持っていた全学連主流派は、国会への突入を含む実力行動によって、岸内閣と安保条約を打倒しようとしました。

1960年6月15日には、国会周辺で警官隊と学生が激しく衝突し、東京大学生の樺美智子さんが死亡しました。

日本共産党は、ブント系全学連の行動を、運動全体を危険にさらす「極左冒険主義」だと批判しました。

新左翼側は、日本共産党が大衆の怒りを抑え、革命へ発展する可能性を失わせたと反発しました。

同じ安保条約に反対していても、両者が考える運動の目的が異なっていたのです。

日本共産党にとって安保闘争は、幅広い国民を結集し、選挙と国会で政治を変える運動でした。

ブントにとっては、安保闘争を社会主義革命へつなげる突破口とする意味がありました。

なぜ同じ左翼なのに協力できなかったのか

1.どちらが正統な共産主義運動かを争った

両者は、資本主義や日米安保体制への批判では共通する部分がありました。

しかし、同じ思想的起源を持つからこそ、「どちらが正しいマルクス主義なのか」をめぐる争いが激しくなりました。

新左翼は、日本共産党を「スターリン主義」「修正主義」「議会主義」と批判しました。

スターリン主義という言葉には、ソ連型の官僚支配だけでなく、日本共産党の中央集権的な組織運営を批判する意味も込められていました。

一方、日本共産党は新左翼を長く「トロツキスト」と呼び、後には「ニセ左翼暴力集団」と呼びました。

ただし、新左翼のすべてがトロツキーの思想を支持していたわけではありません。

「トロツキスト」は、厳密な思想分類というより、日本共産党が反党派を批判する政治的な呼称として広く使った面があります。

2.離党と除名によって生まれた感情的対立

新左翼の初期指導者には、元日本共産党員や元学生党員が多くいました。

日本共産党側から見れば、彼らは党の規律を破り、学生組織を分裂させた人物です。

新左翼側から見れば、日本共産党は批判者を排除し、若い活動家を裏切った組織でした。

最初から無関係だった二つの団体が意見を異にしたのではなく、かつて同じ組織にいた者同士が分裂したため、対立が個人的、感情的になりやすかったのです。

3.同じ学生と労働者を組織しようとした

日本共産党と新左翼は、主な支持対象も重なっていました。

両者とも、大学生、青年労働者、労働組合員、反戦運動の参加者を組織しようとしました。

特に大学では、学生自治会の執行部、自治会費、学生会館、サークル施設、集会の主導権などをめぐる現実的な利害がありました。

自治会の主導権を握れば、大学内で機関紙を配布し、集会を開き、新入生を勧誘できます。

思想論争の背後には、組織の維持と拡大を左右する主導権争いがありました。

4.革命の時期と方法が根本的に違った

日本共産党は、幅広い国民との統一戦線をつくり、国民多数の支持を得て段階的に政治を変える路線を選びました。

新左翼各派は、日本共産党の路線では資本主義体制に取り込まれてしまうと考えました。

選挙や議会を全面的に否定しない党派もありましたが、活動の中心は議会外の大衆運動、ストライキ、街頭闘争、直接行動でした。

日本共産党が重視する「多数の合意」と、新左翼が重視する「革命的な少数者による突破」は両立しにくいものでした。

5.相手を単なる論敵ではなく「革命の妨害者」と考えた

通常の政党間対立では、相手は選挙で争う競争相手です。

しかし当時の急進的な政治運動では、路線の異なる左翼を「革命を裏切る存在」「権力を助ける反革命」とみなす考え方が広がりました。

新左翼側から見れば、日本共産党は学生の直接行動を抑圧する存在でした。

日本共産党側から見れば、新左翼の実力行動は警察の介入を招き、大衆運動を破壊する挑発的な行為でした。

相手を「左翼内部の別意見」として認めず、排除すべき敵と考えたことが、対立を暴力化させました。

全共闘と民青はなぜ衝突したのか

1968年から1969年にかけて、全国の大学で大学紛争が拡大しました。

大学当局の不正経理、学費値上げ、学生処分、医学部の研修制度、学生寮や学生会館の管理など、大学ごとに異なる問題が出発点でした。

各大学では、既存の学生自治会とは別に全学共闘会議、通称・全共闘がつくられました。

全共闘は一つの全国組織ではなく、大学ごとに結成された共闘組織です。

新左翼党派の活動家も参加しましたが、特定党派に所属しないノンセクトの学生も多くいました。

これに対し、日本共産党に近い学生は、民青系の自治会や学生組織を基盤に活動していました。

日本民主青年同盟、通称・民青は、日本共産党そのものではありませんが、規約上、日本共産党を相談相手として援助を受ける青年組織です。

全共闘・新左翼側は、バリケード封鎖や大学当局との大衆団交を通じて、大学制度そのものを問い直そうとしました。

民青系は、大学の民主的改革を求めながらも、長期封鎖や「大学解体」論には反対し、授業再開や大学正常化を主張しました。

全共闘側は民青を「闘争を終わらせる日共の部隊」と批判し、民青側は全共闘や新左翼を「学生の要求を無視して大学を破壊する暴力集団」と批判しました。

東京大学などでは双方の学生が実力組織を形成し、拘束、襲撃、棒を用いた集団衝突にまで発展した例があります。

したがって、大学内の暴力を「新左翼が一方的に民青を攻撃した」、または「民青だけが新左翼を弾圧した」と単純化することはできません。

ただし、その後もテロ、ゲリラ、内ゲバを組織的に継続した新左翼党派と、選挙活動を中心とする日本共産党を、現在まで同じ性格の組織として扱うことも不正確です。

日本共産党もかつて武装闘争を行ったのか

歴史的には、1950年代初頭の分裂期に、日本共産党の一方の指導部が武装闘争路線を採用し、実際に暴力事件が起きています。

そのため、「日本共産党は最初から一貫して平和的で、新左翼だけが暴力的だった」という説明は正確ではありません。

一方で、1950年代初頭の方針を、そのまま現在の日本共産党の方針として説明するのも誤りです。

党は1955年以降に武装闘争路線を転換し、1961年綱領で議会の多数を得て平和的に社会変革を進める路線を確立しました。

現在の公式綱領も、議会制民主主義、複数政党制、選挙による政権交代を維持するとしています。

歴史上の一時期と、現在の公式方針は分けて考える必要があります。

新左翼はすべて暴力集団なのか

これも単純には言えません。

新左翼という言葉は、歴史学や政治史では、日本共産党・社会党とは異なる急進左翼運動全体を示す広い概念です。

党派に所属しない活動家、思想家、市民運動、非暴力の運動まで含めて論じられることがあります。

一方、警察が使用する「極左暴力集団」は、中核派、革マル派、革労協など、暴力革命を掲げ、過去にテロ、ゲリラ、内ゲバなどを行った特定組織を示す治安上の分類です。

「新左翼」と「極左暴力集団」は完全な同義語ではありません。

新左翼の一部が暴力的な党派闘争へ進んだことは事実ですが、反戦集会に参加した人、全共闘に加わった人、既成左翼を批判した人をすべて暴力集団の構成員とみなすことはできません。

日本共産党対新左翼と「内ゲバ」は同じなのか

内ゲバとは、内部ゲバルトの略で、主に左翼党派同士が暴力によって争うことを指します。

広い意味では、日本共産党・民青系と新左翼の衝突を内ゲバ的な対立と表現することもあります。

しかし、戦後政治史で「内ゲバ」という場合、特に問題となるのは新左翼党派同士の抗争です。

代表的なのが、1963年に革命的共産主義者同盟が分裂して生まれた中核派と革マル派の対立です。

両派は互いを「裏切り者」「反革命」とみなし、1970年代には殺人を伴う報復の連鎖に入りました。

革労協も後に分裂し、主流派と反主流派の間で死者を出す抗争を繰り返しました。

日本共産党と新左翼の対立が、既成左翼と反既成左翼の争いだったのに対し、中核派と革マル派などの内ゲバは、新左翼内部の主導権と路線をめぐる争いです。

両者は関連していますが、同じ対立ではありません。

現在の日本共産党と新左翼の関係

現在の日本共産党は、国会や地方議会で活動し、選挙によって政治を変えることを目指す政党です。

日本共産党は、新左翼の主要党派と組織的に協力する関係にはありません。

中核派、革マル派、革労協なども現在まで活動を続けていますが、1960年代と比べれば社会的影響力は大幅に縮小しています。

警察庁は現在も、これらの一部を「極左暴力集団」と位置づけ、非公然組織を保有しているとして動向を監視しています。

ただし、反戦、基地問題、原発、労働運動などでは、日本共産党系の参加者、新左翼系の参加者、無党派の市民が、同じ集会や抗議活動に参加する場合があります。

同じ場所に参加していることだけで、団体同士が連携している、あるいは参加者全員が新左翼であると判断することはできません。

まとめ

日本共産党は1922年に結成され、現在は選挙、国会、地方議会を中心に活動する政党です。

新左翼は1950年代後半、日本共産党や日本社会党などの既成左翼を批判して登場した多数の党派・運動の総称です。

新左翼が生まれた背景には、日本共産党の「50年問題」、武装闘争路線、六全協後の路線転換、学生党員の離党・除名がありました。

両者は、社会主義や安保反対という抽象的な目標では共通していても、革命の方法、議会の評価、組織運営、学生運動の戦術について根本的に対立しました。

さらに、同じ学生や労働者を組織し、自治会や運動の主導権を争ったため、思想論争が現実の組織抗争へ発展しました。

新左翼側は日本共産党を「スターリン主義」「修正主義」と批判し、日本共産党側は新左翼を「トロツキスト」「ニセ左翼暴力集団」と批判しました。

1960年安保闘争で対立が決定的となり、1968年から1969年の大学闘争では、全共闘・新左翼系と民青系の学生が激しく衝突しました。

日本共産党と新左翼は、同じ左翼の仲間が小さな戦術の違いで分かれたのではありません。

新左翼は、日本共産党の方針と権威を否定することで成立した「反既成左翼」であり、両者はどちらが正統な社会変革運動なのかを争う競合関係にあったのです。

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