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戦後日本の学生運動・新左翼事件一覧 安田講堂・よど号・あさま山荘を時系列で解説

戦後日本の学生運動を調べると、全学連、全共闘、ブント、赤軍派、連合赤軍、日本赤軍など、似た名称の組織が次々と登場します。

さらに、安保闘争、東大安田講堂事件、よど号ハイジャック事件、あさま山荘事件といった出来事が一続きに語られるため、「安田講堂に立てこもった学生が、よど号を乗っ取り、その後あさま山荘事件を起こした」と受け取られることもあります。

しかし、これは正確ではありません。

安田講堂事件を担ったのは、東大全共闘、新左翼各派、ノンセクト学生などの混成勢力でした。

よど号を乗っ取ったのは共産主義者同盟赤軍派の一部で、あさま山荘事件を起こした連合赤軍は、赤軍派と別系統の革命左派が合流してできた組織です。

さらに、中東で活動した日本赤軍も、よど号グループや連合赤軍とは別組織です。

大衆的な学生運動の一部から急進的な党派が生まれ、その党派がさらに分裂して武装組織へ進んだという大きな流れはあります。

しかし、大多数の学生運動参加者が武装闘争へ進んだわけではありません。

今回は、戦後の学生運動がどのように始まり、安田講堂事件を経て、よど号事件やあさま山荘事件へ枝分かれしていったのかを時系列で解説します。

学生運動・新左翼・全共闘は同じではない

最初に、よく混同される三つの言葉を整理します。

用語意味
学生運動学生が教育、学費、自治、平和、政治などの問題をめぐって行う運動全般
新左翼日本共産党や日本社会党などの既成左翼を批判して登場した急進的な党派・運動の総称
全学連全日本学生自治会総連合の略称。後に党派別に分裂し、複数の全学連が生まれた
全共闘全学共闘会議の略称。特定の全国組織ではなく、大学ごとに作られた共闘組織
赤軍派1969年に第二次ブントから分裂した武装革命組織
連合赤軍赤軍派と革命左派が1971年に合流してできた国内武装組織
日本赤軍重信房子らが中東を拠点に組織した国際武装組織

全共闘に参加した学生がすべて新左翼党派の構成員だったわけではありません。

党派に所属しない「ノンセクト」と呼ばれる学生も多く、大学の不正経理、学費値上げ、学生処分、研修医制度など、学内の具体的問題から参加した学生もいました。

また、新左翼も一枚岩ではありません。

ブント、中核派、革マル派、社青同解放派、第四インターナショナルなどは、それぞれ別の思想と組織を持ち、ときには互いに激しく対立しました。

戦後学生運動・新左翼事件の時系列一覧

年出来事主な勢力歴史的な意味
1948年全学連結成各大学の学生自治会戦後学生運動の全国組織が成立
1955~56年砂川闘争住民、労働組合、学生基地反対の住民運動に学生が参加
1958年共産主義者同盟、通称ブント結成日本共産党を離れた学生党員ら代表的な反日本共産党系新左翼が誕生
1960年60年安保闘争全学連、ブント、労組、市民、既成政党学生運動が全国政治の中心に登場
1963年革共同が中核派と革マル派に分裂革命的共産主義者同盟後の激しい内ゲバの出発点
1966年三派全学連結成中核派、ブント系、社青同解放派反日本共産党系学生運動が再編
1967年第一次羽田事件三派全学連など新左翼の街頭闘争が急激に過激化
1968年日大闘争・東大闘争全共闘、新左翼、ノンセクト学生大学問題を発端に全国へ闘争が拡大
1968年新宿騒乱事件新左翼各派、反戦青年新宿駅周辺で大規模な街頭衝突
1969年東大安田講堂事件東大全共闘、新左翼各派大学闘争の象徴であり、事実上の転換点
1969年赤軍派結成第二次ブント関西派公然たる武装革命路線を掲げる
1969年大菩薩峠事件赤軍派武装訓練中の大量逮捕で組織が打撃
1970年よど号ハイジャック事件赤軍派9人北朝鮮に「国際根拠地」を求めて渡航
1971年連合赤軍結成赤軍派と革命左派国内武装闘争を目指す二組織が合流
1971~72年連合赤軍山岳ベース事件連合赤軍「総括」の名で構成員12人を殺害
1972年あさま山荘事件連合赤軍5人人質を取って10日間立てこもる
1972年テルアビブ・ロッド空港事件日本赤軍関係者日本の新左翼系武装闘争が国際化
1970年代前半~中核派・革マル派内ゲバ中核派、革マル派報復殺人が続き、新左翼全体が社会的に孤立
1974年三菱重工ビル爆破事件東アジア反日武装戦線「狼」一般市民を多数巻き込む爆弾事件
1975年クアラルンプール事件日本赤軍人質と引き換えに収監中の活動家を釈放させる
1977年ダッカ日航機ハイジャック事件日本赤軍日本政府が収監者釈放と身代金支払いに応じる
1978年成田空港管制塔占拠事件第四インター系など管制設備が破壊され、空港開港が延期
1980年代成田闘争・皇室行事などをめぐるゲリラ事件中核派、革労協など大衆的学生運動から秘密軍事部門中心へ移行

1948年 全学連の結成

戦後の大学では、戦前の軍国主義的な教育制度を見直し、学生自治を確立しようとする運動が広がりました。

1948年9月、全国の学生自治会が集まり、全日本学生自治会総連合、通称・全学連が結成されます。

初期の全学連は、授業料値上げ反対、学生生活の改善、大学自治、戦争反対などに取り組みました。

当時は日本共産党の強い影響下にありましたが、党の方針に必ず従うわけではなく、学生側が独自に行動する場面もありました。

1950年代に日本共産党が分裂と路線転換を経験すると、党指導部と全学連の学生党員との対立が深まります。

この対立から、後にブントなどの新左翼が生まれました。

1955~56年 砂川闘争

1955年、在日米軍立川基地の滑走路拡張計画に対し、東京都砂川町、現在の立川市の住民が反対運動を始めました。

住民、労働組合、社会党・共産党系の活動家、学生などが測量阻止行動に参加し、警官隊と衝突しました。

砂川闘争は学生だけの運動ではありません。

地域住民が主体となり、学生や労働者が支援した基地反対運動です。

後の新左翼系学生運動は、こうした現地闘争を通じて、国会や選挙だけでなく、現場で直接行動するという運動方法を学んでいきました。

1958年 ブントの結成

1958年12月、日本共産党から離れた学生党員らが共産主義者同盟、通称・ブントを結成しました。

ブントは、日本共産党が議会活動と組織防衛を優先し、革命運動を抑えていると批判しました。

日本共産党側は、ブントの学生を党の規律を破壊する分派、トロツキストなどと批判しました。

ブントは全学連主流派に大きな影響力を持ち、1960年安保闘争で中心的な役割を果たします。

ただし、ブント自体は一つの強固な全国政党というより、若い学生や活動家が集まった急進的な政治同盟でした。

このため、安保闘争後には急速に分裂します。

1960年 安保闘争と樺美智子さんの死

1960年、岸信介内閣による日米安全保障条約改定に反対する大規模な運動が起こりました。

社会党、日本共産党、労働組合、市民団体、文化人、学生など、立場の異なる人々が反対運動に参加しました。

ブントが主導する全学連主流派は、通常の請願デモだけでは安保改定を阻止できないとして、国会構内への突入を含む実力行動を展開します。

1960年6月15日、国会周辺で警官隊と学生が激しく衝突し、東京大学生の樺美智子さんが死亡しました。

この事件は学生運動の象徴となり、岸内閣に対する世論の反発を一段と強めました。

一方で、安保条約の発効を阻止することはできませんでした。

目標を達成できなかったブントは責任や路線をめぐって分裂し、第一次ブントは事実上崩壊します。

1963年 中核派と革マル派の分裂

ブントとは別に、1957年に結成された革命的共産主義者同盟、略称・革共同という新左翼組織がありました。

革共同は反スターリン主義を掲げていましたが、組織運営や革命戦略をめぐって分裂を繰り返します。

1963年には、中核派と革マル派に分裂しました。

両派は当初から激しく対立し、後に互いの活動家を襲撃する内ゲバへ発展します。

思想上の違いだけでなく、学生自治会や労働組合の主導権、拠点大学、活動家の引き抜きなどをめぐる組織競争も対立を悪化させました。

1967年 第一次羽田事件

1960年代後半、ベトナム戦争への反対運動が世界的に拡大しました。

日本では1967年10月8日、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を阻止しようとした新左翼系学生が、羽田空港周辺で警官隊と激しく衝突しました。

この第一次羽田事件で、京都大学生の山崎博昭さんが死亡しました。

山崎さんが死亡した正確な経緯については、警察車両との接触をめぐって当時から見解の対立があります。

しかし、死者が出たことによって、新左翼側では「権力との闘いで犠牲者が出た」という意識が強まりました。

以後、角材、ヘルメット、火炎瓶などを用いた街頭闘争が急速に拡大します。

1968年 日大闘争と東大闘争

1968年には全国の大学で紛争が広がりました。

日本大学では、巨額の使途不明金など大学経営の問題をきっかけに、学生が大学当局を追及しました。

東京大学では、医学部の研修医制度と学生処分をめぐる問題から運動が始まりました。

東大では、大学当局が安田講堂に機動隊を導入したことへの反発が全学部へ拡大し、東大全共闘が結成されました。

学生の要求は、処分撤回や大学改革だけでなく、「大学は国家や産業のために人材を供給する機関になっているのではないか」という大学制度そのものへの批判へ発展します。

全共闘には新左翼党派の活動家も参加しましたが、特定党派に所属しない学生も多数参加していました。

1968年度には67大学、1969年度には127大学で紛争が発生したと文部省は記録しています。

1968年 新宿騒乱事件

1968年10月21日の国際反戦デーには、新左翼各派や反戦青年が新宿駅周辺に集結しました。

参加者の一部が駅構内へ入り、列車の運行を妨げ、放火や投石などを行いました。

警視庁は騒擾罪を適用し、多数を逮捕しました。

新宿騒乱事件は、大学内の闘争と街頭の反戦闘争が結びついた象徴的な事件です。

一方、駅を利用する一般市民にも大きな影響が出たことで、新左翼の行動に対する社会の反発も強まりました。

1969年 東大安田講堂事件

1969年1月18日から19日、警視庁は東京大学本郷キャンパスへ機動隊を投入し、占拠されていた安田講堂などの封鎖解除を行いました。

占拠側は、石、火炎瓶、鉄パイプなどで抵抗し、警察側は放水車や催涙ガスなどを使用しました。

攻防はテレビで長時間中継され、屋上から火炎瓶が投げられる映像や、放水を受ける安田講堂が全国に伝えられました。

ただし、安田講堂に立てこもっていた人々のすべてが東京大学の学生だったわけではありません。

東大全共闘のほか、他大学から参加した新左翼党派の活動家も含まれていました。

東大安田講堂事件は学生運動の最大の象徴になりましたが、同時に大衆的な大学闘争が衰退へ向かう転換点でもありました。

東京大学は1969年の入学試験を中止し、政府は同年8月、大学紛争への対応を目的とする大学運営臨時措置法を施行しました。

安田講堂からよど号へ直結したわけではない

安田講堂事件の後、多くの学生は運動から離れました。

一部は労働運動、市民運動、公害反対運動、女性解放運動などへ移りました。

武装闘争へ進んだのは、学生運動参加者全体から見れば少数です。

しかし、新左翼の一部には、大学を占拠しても国家権力には勝てず、より本格的な軍事組織が必要だと考える勢力が現れました。

その代表が赤軍派です。

したがって、安田講堂事件からよど号事件への変化は、学生運動全体の必然的な進路ではありません。

大衆運動が後退する中で、ごく一部の党派が武装闘争を選択した結果です。

1969年 赤軍派結成と大菩薩峠事件

1969年、再建された第二次ブントの内部から、関西の急進派を中心に共産主義者同盟赤軍派が結成されました。

赤軍派は「前段階武装蜂起」を掲げ、革命を待つのではなく、武装行動によって革命的状況を作り出そうとしました。

警察施設や首相官邸などへの攻撃も計画し、爆発物の製造や軍事訓練を進めます。

1969年11月、山梨県の大菩薩峠周辺で軍事訓練を行っていた活動家が警察に摘発され、多数が逮捕されました。

これが大菩薩峠事件です。

赤軍派は組織的に大きな打撃を受け、残った活動家は国内での武装闘争、海外拠点の建設、中東での国際闘争など、複数の方向へ分かれていきました。

1970年 よど号ハイジャック事件

1970年3月31日、赤軍派の田宮高麿ら9人が、東京発福岡行きの日本航空351便、通称「よど号」をハイジャックしました。

9人は乗客と乗員を人質に取り、北朝鮮へ向かうよう要求しました。

航空機は韓国の金浦空港を経由した後、北朝鮮へ入りました。

犯人グループは、北朝鮮に革命運動の国際的な根拠地を建設し、将来日本へ戻って武装革命を起こす構想を持っていました。

しかし、北朝鮮に渡ったグループが、武装して日本へ「逆上陸」することはありませんでした。

よど号グループは北朝鮮にとどまり、日本赤軍とは別の集団として活動します。

後年、一部メンバーやその妻について、日本人拉致事件への関与が疑われ、逮捕状が出されています。

1971年 連合赤軍の結成

大菩薩峠事件やよど号事件の後も、国内に残った赤軍派は、金融機関を襲撃して活動資金を得る「M作戦」などを実行しました。

一方、毛沢東思想の影響を受けた日本共産党革命左派神奈川県委員会、通称・革命左派は、銃砲店を襲撃して猟銃を奪うなどしていました。

名称に「日本共産党」と入っていますが、現在の日本共産党とは別組織であり、むしろ日本共産党と対立していました。

1971年7月、赤軍派と革命左派の軍事部門が合流し、連合赤軍が結成されます。

しかし、両組織は思想も文化も異なり、武器と潜伏場所を共有するために軍事面で合流した性格が強いものでした。

1971~72年 山岳ベース事件

警察の捜査から逃れるため、連合赤軍は群馬県などの山中に拠点を移しました。

山岳拠点では、革命家としての思想や行動を自己批判する「総括」が行われました。

当初は反省や訓練を意味していた言葉が、次第に暴行、拘束、食事制限、極寒の屋外への放置へ変質します。

幹部に「総括が足りない」と判断された構成員が次々と暴行を受け、12人が死亡しました。

さらに、連合赤軍結成前に革命左派が仲間2人を殺害した印旛沼事件を合わせ、内部で殺害された人数を14人と数える場合もあります。

山岳ベース事件は、異なる意見を認めない組織、外部から遮断された集団生活、幹部への権力集中、警察への恐怖、構成員同士の相互監視が重なって起きました。

単に「共産主義思想を持っていたから」ではなく、孤立した秘密組織が内部粛清へ進んだ事件として見る必要があります。

1972年 あさま山荘事件

警察は山中の連合赤軍拠点を次々と発見し、逃走していた構成員を追跡しました。

1972年2月19日、連合赤軍のメンバー5人が長野県軽井沢町の保養所「あさま山荘」に入り、管理人の妻を人質に取りました。

5人は猟銃などで武装し、警察に発砲しながら立てこもりました。

事件は10日間続き、2月28日に警察が山荘へ突入して人質を救出し、5人を逮捕しました。

人質は救出されましたが、警察官2人と、人質救出を試みた民間人1人が死亡しました。

テレビ中継は極めて高い視聴率を記録し、日本中が事件の推移を見守りました。

さらに、事件後の捜査で山岳ベースから仲間の遺体が次々と発見されます。

社会変革を訴えていた組織が、実際には仲間を暴行して殺害していたことが明らかになり、新左翼運動全体に対する支持と共感は急速に失われました。

よど号・連合赤軍・日本赤軍の関係

三つの組織は赤軍派を共通の起源としますが、別々の道を進みました。

組織活動場所主な事件
よど号グループ北朝鮮よど号ハイジャック事件
連合赤軍日本国内山岳ベース事件、あさま山荘事件
日本赤軍中東・欧州・アジアなどロッド空港事件、クアラルンプール事件、ダッカ事件など

よど号グループは北朝鮮を国際根拠地にしようとしました。

国内に残った赤軍派の一部は革命左派と合流し、連合赤軍となりました。

重信房子らは中東へ渡り、パレスチナ解放人民戦線などと連携して日本赤軍を組織しました。

「赤軍」という言葉が共通しているため混同されますが、よど号事件を日本赤軍が起こしたわけでも、あさま山荘事件を日本赤軍が起こしたわけでもありません。

1972年 テルアビブ・ロッド空港事件

1972年5月30日、イスラエルのテルアビブ近郊にあるロッド空港で、日本人3人が自動小銃や手榴弾を用いて無差別攻撃を行い、多数の死傷者を出しました。

実行者はパレスチナ解放人民戦線の作戦に参加した日本人活動家で、日本赤軍の国際武装闘争を象徴する事件となりました。

連合赤軍が国内で崩壊したのと同じ年に、別系統の日本赤軍が海外で大規模事件を起こしたため、両者が同一組織だという誤解が広がりました。

中核派と革マル派の内ゲバ

赤軍系とは別に、中核派と革マル派の対立も激化しました。

両派は1963年に同じ革共同から分裂した組織です。

学生自治会や労働組合の主導権を争い、相手を「革命運動を破壊する反革命」とみなすようになりました。

1970年代には活動家の尾行、拉致、監禁、集団暴行、殺害が繰り返されます。

1975年には中核派の最高指導者だった本多延嘉氏が革マル派の襲撃を受けて殺害され、その後も報復が続きました。

警察との衝突だけでなく、左翼党派が互いを殺害する状況は、多くの学生や支持者を運動から遠ざけました。

1974年 三菱重工ビル爆破事件

1974年8月30日、東京・丸の内の三菱重工本社ビル前で時限爆弾が爆発し、8人が死亡、約380人が負傷しました。

実行したのは東アジア反日武装戦線「狼」です。

東アジア反日武装戦線は、赤軍派、連合赤軍、日本赤軍とは別系統の組織です。

日本企業による海外進出を、戦前の日本帝国主義の延長とみなし、企業施設への爆弾攻撃を行いました。

しかし、三菱重工ビル爆破事件では、企業と無関係な通行人や周辺の会社員が多数巻き込まれました。

この事件は、新左翼や急進思想を背景とする武装闘争が、一般市民を無差別に巻き込む段階へ進んだことを示しました。

1975年・1977年 日本赤軍による人質事件

日本赤軍は、収監されている仲間を奪還するため、海外で大使館占拠や航空機ハイジャックを行いました。

1975年のクアラルンプール事件では、マレーシアにある米国大使館関係施設などを襲撃し、人質と引き換えに日本で拘束されていた活動家の釈放を要求しました。

1977年のダッカ事件では、日本航空472便をハイジャックし、収監中の活動家9人の釈放と身代金を要求しました。

日本政府は要求の一部を受け入れ、6人を釈放し、身代金を支払いました。

福田赳夫首相が「人命は地球より重い」と述べたとされる事件です。

この対応は人質の生命を救う一方、武装組織に仲間の奪還を成功させたとして、その後のテロ対策に大きな課題を残しました。

1978年 成田空港管制塔占拠事件

成田空港建設をめぐっては、用地決定の過程や強制収用に反発した農民による三里塚闘争が続いていました。

新左翼各派は、農民の反対運動を支援し、成田闘争を国家権力との重要な対決と位置づけました。

ただし、地元農民の反対運動と、新左翼党派による武装闘争は同じものではありません。

1978年3月26日、第四インターナショナル系などの活動家が成田空港内に侵入し、管制塔を占拠して管制設備を破壊しました。

このため、3月30日に予定されていた開港は延期され、成田空港は5月20日に開港しました。

成田闘争はその後も続き、1980年代には空港や関連企業、警察施設などを狙った放火、爆発物、迫撃弾などによるゲリラ事件が発生しました。

学生運動はなぜ武装闘争へ進んだのか

ベトナム戦争と安保体制への危機感

当時、ベトナム戦争では多くの民間人が犠牲となり、日本国内の米軍基地も戦争に利用されていました。

一部の学生は、日本も戦争に加担しており、通常の選挙や請願だけでは止められないと考えました。

既成左翼への失望

新左翼は、日本共産党や社会党が選挙と議会を優先し、体制の一部になったと批判しました。

若い活動家の間では、自分たちが先に行動することで労働者や市民を決起させるという「先駆性」の考え方が広がります。

実力行動が注目を集めた

国会突入、大学封鎖、駅占拠などは大きく報道されました。

小さな組織でも、激しい行動を起こせば社会に存在を示せるという成功体験が、より過激な行動を促しました。

警察との衝突による報復意識

デモや街頭闘争では、学生側と警察側の双方に多数の負傷者が出ました。

仲間の逮捕や死亡を「国家権力による弾圧」と受け止め、さらに強い武装で対抗しようとする意識が生まれました。

これは違法な暴力を正当化する理由にはなりませんが、過激化の背景として無視できません。

党派の分裂と秘密組織化

運動が後退すると、組織は一般学生や市民との接点を失いました。

少人数の秘密組織になるほど、内部で反対意見を述べにくくなり、幹部の判断が絶対化します。

外部との接触を断った連合赤軍が内部粛清へ進んだのは、その極端な例です。

学生運動全体が暴力的だったわけではない

戦後の学生運動には、授業料値上げ反対、学生寮の改善、大学自治、反戦、基地問題、公害、差別など、さまざまな課題がありました。

デモやストライキに参加した学生の大多数が、ハイジャックや爆弾事件を支持していたわけではありません。

全共闘に参加した学生の多くも、大学卒業、就職、地域活動などを通じて通常の社会生活へ戻りました。

その後、環境運動、女性運動、住民運動、労働運動、出版、教育、医療などの分野へ進んだ元活動家もいます。

テレビや新聞には、火炎瓶、ヘルメット、安田講堂、あさま山荘などの強烈な映像が残りました。

そのため、戦後学生運動全体が武装闘争だったように記憶されやすいのです。

なぜあさま山荘事件が転換点になったのか

安田講堂事件までは、過激な行動に批判的な人でも、大学改革やベトナム反戦という問題意識には共感できる部分がありました。

よど号事件についても、一部には既成社会へ反抗する若者として英雄視する空気が残っていました。

しかし、あさま山荘事件後に仲間12人の殺害が明らかになると、その見方は決定的に変わります。

運動が国家権力と戦ったのではなく、内部の弱い立場の構成員を「総括」の名で殺していたからです。

あさま山荘事件と山岳ベース事件は、新左翼の武装闘争が社会変革ではなく、閉鎖的な組織の自己破壊へ進んだことを象徴する事件となりました。

以後、大衆的な学生運動と、少数党派によるテロ・ゲリラは明確に分離していきます。

まとめ

戦後日本の学生運動は、1948年の全学連結成から始まり、授業料、大学自治、基地、安保、ベトナム戦争などをめぐって拡大しました。

1958年には日本共産党を批判する学生らがブントを結成し、1960年安保闘争で新左翼系学生運動が大きな影響力を持ちました。

1967年の羽田事件以降、街頭闘争は急速に過激化し、1968年から1969年にかけて日大闘争、東大闘争、安田講堂事件が起きました。

安田講堂事件後、大衆的な大学闘争は後退します。

その一部から武装革命を掲げる赤軍派が生まれ、1970年によど号ハイジャック事件を起こしました。

赤軍派の国内残留組は革命左派と合流して連合赤軍となり、山岳ベース事件とあさま山荘事件を引き起こしました。

一方、中東へ渡った重信房子らは日本赤軍を組織し、ロッド空港事件、クアラルンプール事件、ダッカ事件などを起こしました。

東アジア反日武装戦線による三菱重工ビル爆破事件や、中核派と革マル派の内ゲバは、これら赤軍系とは別の流れです。

安田講堂、よど号、あさま山荘は、戦後学生運動の過激化を象徴する出来事ではあります。

しかし、同じ組織が連続して起こした事件ではありません。

大衆的な学生運動が衰退する過程で、一部の党派が分裂し、国内武装闘争、北朝鮮への渡航、中東での国際闘争へ枝分かれしたものです。

この組織関係を分けて考えることが、戦後学生運動と新左翼事件の歴史を正確に理解するポイントです。

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