1972年2月、長野県軽井沢町の「あさま山荘」に武装した5人が立てこもり、管理人の妻を人質に取りました。
警察との対峙は10日間に及び、2月28日の突入で人質は救出され、5人は全員逮捕されました。一方、警察官2人と民間人1人が死亡しました。これが「あさま山荘事件」です。
なぜ5人は山荘に立てこもったのでしょうか。
直接のきっかけは、山中のアジトを発見され、仲間が次々と逮捕されるなか、警察から逃れていたことです。あさま山荘は、最初から占拠する予定だった政治的な拠点ではありません。追跡を受けた5人が逃走の末に入り、人質を取って立てこもった場所でした。
ただし、逃走だけで事件の背景を説明することはできません。5人が属していた連合赤軍は、すでに山中で仲間を次々と殺害し、組織として崩壊しつつありました。
山荘事件を理解するには、「警察からの逃走」という直接の理由と、「連合赤軍がなぜそこまで追い詰められたのか」という背景を分けて見る必要があります。
あさま山荘事件で何が起きたのか
事件が始まったのは、1972年2月19日です。
連合赤軍のメンバー5人が、長野県軽井沢町にあった河合楽器の保養施設「あさま山荘」に入りました。当時、建物には管理人の妻がいました。5人はこの女性を人質に取り、建物内にバリケードを築いて立てこもりました。
警察は山荘を包囲し、投降を呼びかけました。しかし5人は応じず、銃などを使って抵抗しました。
2月28日、警察は鉄球を使って建物の壁を破るなどして突入。人質を救出し、5人を逮捕しました。2月19日から28日まで、日付を含めて数えると10日間の事件です。
人質となった女性は無事に救出されました。しかし警察官2人が殉職し、山荘に近づいた民間人1人も銃撃を受け、後に死亡しています。
この民間人が亡くなったのは、銃撃された当日ではなく3月1日です。そのため「立てこもり事件による死者は3人」と「2月28日までに死亡した人数」は、時点を厳密に分けて考える必要があります。
連合赤軍とは何だったのか
連合赤軍は、二つの新左翼系武装組織が合流してできた組織です。
一方は、共産主義者同盟から分かれた「赤軍派」。もう一方は、「日本共産党革命左派神奈川県委員会」で、京浜安保共闘とも呼ばれたグループです。
両者は思想や運動の経緯が異なりましたが、1971年に武装闘争を進めるため合流しました。
赤軍派には金融機関への強盗を重ねて活動資金を得ていた経緯があり、革命左派には銃砲店を襲って猟銃などを奪った経緯がありました。警察の捜査が進むにつれ、都市部での活動や潜伏は難しくなっていきます。
ここで名前の似た組織との違いにも注意が必要です。
1970年の「よど号」ハイジャックを起こしたのは赤軍派のメンバーですが、これは連合赤軍が結成される前の事件です。また、後に中東を拠点として活動した「日本赤軍」も、連合赤軍とは別の組織です。
さらに、革命左派の名称に「日本共産党」が含まれていても、当時の日本共産党本体と連合赤軍を同一視することはできません。
山荘に至る前、山中では何が起きていたのか
連合赤軍のメンバーは、警察の捜査を避けながら、各地の山中に「山岳ベース」と呼ばれるアジトを設けました。
そこで武装訓練や共同生活を行っていましたが、内部では思想や行動をめぐる批判がエスカレートします。
メンバーに「総括」を求め、十分に反省していないと判断すると、暴力を加えたり、厳寒の屋外に拘束したりしました。
本来「総括」は活動を振り返る言葉ですが、連合赤軍の内部では、暴力によって仲間を追い詰める行為に使われました。その結果、山岳ベースでは12人のメンバーが死亡します。
これとは別に、合流前の革命左派が1971年夏に脱走した仲間2人を殺害した事件があります。「仲間14人を殺害した」と説明される場合は、山岳ベースでの12人に、この2人を加えた数です。
ただし、この14人は「あさま山荘の建物内で殺害された人」ではありません。山荘事件と、山岳ベースなどでの仲間の殺害は、時期も場所も異なる事件です。
この区別をしないと、何が山荘で起き、何がその前に起きていたのかが分からなくなります。
なぜ山中のアジトから逃げ出したのか
1972年2月7日、群馬県警察は、住民から寄せられた不審な放置車両の情報をきっかけに、榛名山中の連合赤軍のアジトを発見しました。
警察は捜査を広げ、山中を移動するメンバーを追います。2月16日から19日にかけて、幹部の森恒夫、永田洋子らが相次いで逮捕されました。
残るメンバーも、同じ場所にとどまり続けることができません。
山中のアジトは隠れ場所であると同時に、警察に位置を知られれば逃げ道が限られる場所でもありました。幹部が逮捕され、仲間も減るなか、メンバーは移動を続けます。
最後に逃走を続けていた5人が軽井沢に入り、警察に追われるなかで、あさま山荘に逃げ込みました。
このため、「革命を訴えるため、あさま山荘を占拠する計画を立てた」という説明は、確認できる事件の経過とは合いません。
直接の事情は、アジトの発見と逮捕、そして警察の追跡です。
なぜ人質を取って立てこもったのか
5人は武装したまま追われていました。入った先の山荘には人がおり、そこで管理人の妻を人質に取って建物に立てこもります。
建物に入れば、屋外で警察に追われ続けるよりは一時的に身を守れます。人質がいる状況では、警察もその安全を考えて対応せざるを得ません。
こうした条件から、立てこもりは追跡から逃れるための行動が、人質を伴う銃撃事件へ発展したものと考えられます。
ただし、「5人がその瞬間に何を考え、どこまで先の展開を想定していたか」を、外部資料だけで一つの心理に決めつけることはできません。
確実にいえるのは、警察に追われた5人が山荘へ入り、そこにいた女性を人質にして、投降せず抵抗を続けたという行動の経過です。
連合赤軍という組織の目標と、あさま山荘を占拠した直接の動機は、同じものとして扱うべきではありません。
なぜ立てこもりは10日間も続いたのか
警察には、人質の命を守りながら武装した5人を逮捕するという難しい課題がありました。
山荘内の状況を完全には把握できず、5人は建物内にバリケードを設けて銃で抵抗していました。現場は寒さの厳しい山間部でもあります。
すぐに突入すれば人質が危険にさらされる可能性があり、包囲を続ければ警察官や現場周辺の人々が銃撃を受ける危険が続きます。
警察は投降を呼びかけながら包囲を続け、最終的に2月28日の突入を決めました。
鉄球で壁を破る映像は事件を象徴する場面として知られていますが、事件の中心にあったのは建物を壊すことではありません。人質を救出し、5人を逮捕することでした。
事件中、山岳ベースの殺害は知られていたのか
現在は、あさま山荘事件と山岳ベースでの大量殺害が一続きの歴史として語られます。
しかし、当時テレビで立てこもりを見ていた人々が、山中で何が起きたのかをすべて知っていたわけではありません。
仲間の遺体が発見され、殺害の実態が明らかになっていくのは、山荘事件の終結後です。警察白書も、山荘事件と山岳ベースの大量殺害を別の項目に分けて記載しています。
つまり、事件をリアルタイムで見ていた人々にとっては、まず「武装した5人が女性を人質に取って立てこもっている事件」でした。
その後、仲間を次々と死に追いやっていた事実が判明し、連合赤軍に対する見方はさらに大きく変わりました。
「山荘の5人が、山岳ベースでの殺害をテレビの視聴者に隠すために立てこもった」といった説明は、確認できる直接の動機を超えた推測です。追跡からの逃走と、組織内で起きた殺害の発覚時期を混同しないことが大切です。
事件による死者と、連合赤軍事件全体の死者は違う
数字を整理すると、あさま山荘事件で死亡したのは警察官2人と民間人1人の計3人です。人質の女性は救出され、立てこもった5人も生きたまま逮捕されました。
一方、山岳ベースでは連合赤軍のメンバー12人が死亡しています。さらに合流前、革命左派によって2人が殺害されていました。
したがって、「山荘事件の死者3人」「山岳ベースの死者12人」「合流前の事件も含めた仲間の死者14人」は、それぞれ数えている範囲が違います。
同じ事件の死者数が資料によって食い違っているように見えたときは、どの場所と時期を対象にしているのかを確認すると整理できます。
テレビ中継が残した印象
2月28日の突入はテレビで生中継され、山荘に向けて鉄球を動かす場面や、現場で活動する警察官の姿が広く知られるようになりました。
厳寒の現場で警察官に配られた「カップヌードル」も、映像を通じて注目されました。日清食品は自社の沿革で、警察官が食べる様子が繰り返し映され、商品の売れ行きが伸びたと説明しています。
ただし、鉄球やカップヌードルだけを事件の記憶にしてしまうと、人質の恐怖、亡くなった3人、そして山中で殺害された仲間たちの存在が見えにくくなります。
映像として記憶される「山荘の攻防」と、その前から進んでいた「連合赤軍の組織崩壊」は、両方を見て初めてつながります。
連合赤軍はなぜ孤立したのか
連合赤軍の二つの母体は、武装闘争という点では協力できても、思想や組織運営まで十分に一致していたわけではありません。
警察の捜査で活動範囲が狭まり、山中での共同生活が長引くと、内部での批判や不信感が強まります。指導部は仲間に「総括」を迫り、暴力を正当化しました。
その結果、外部に向けて革命を訴えるはずの組織が、内部の仲間を次々と死に追いやる事態になりました。
そして山荘事件では、無関係の女性を人質に取り、警察官と民間人の命を奪いました。
事件後に山岳ベースでの大量殺害が明らかになると、新左翼運動にも大きな衝撃が広がりました。ただし、連合赤軍の行動を、当時の学生運動や反戦運動に参加した人々すべての行動として一般化することも正確ではありません。
あさま山荘事件を時系列で整理
1971年:連合赤軍の成立
赤軍派と革命左派が武装闘争を進めるために合流しました。その後、警察の捜査を避けながら山中のアジトを転々とします。
1971年末~1972年初め:山岳ベースでの大量殺害
「総括」と称する暴力によって、仲間12人が死亡しました。これとは別に、合流前に革命左派が仲間2人を殺害しています。
1972年2月7日:山中のアジトを発見
住民からの情報を端緒として、警察が榛名山中のアジトを発見。捜査と追跡が進みます。
2月16日~19日:メンバーが相次いで逮捕
森恒夫、永田洋子ら幹部を含むメンバーが逮捕されます。残る5人は逃走を続けました。
2月19日:あさま山荘に立てこもる
逃走中の5人が軽井沢の山荘へ入り、管理人の妻を人質に取りました。
2月28日:警察が突入
人質を救出し、5人全員を逮捕しました。事件では警察官2人が殉職し、銃撃された民間人1人も後に死亡しました。
まとめ
あさま山荘事件は、1972年2月19日から28日まで、連合赤軍のメンバー5人が長野県軽井沢町の山荘で女性を人質に取り、警察と対峙した事件です。
5人が山荘に入った直接の理由は、警察に山中のアジトを発見され、幹部や仲間が相次いで逮捕されるなか、追跡から逃れていたことでした。
一方、その背後には、山岳ベースでの仲間12人の死亡と、それによる組織の崩壊がありました。
「あさま山荘を政治的な拠点として計画的に占拠した」と考えると、事件に至る逃走の経緯が見えなくなります。逆に「逃げ込んだだけ」と考えると、武装した5人が人質を取り、10日間抵抗し、3人が死亡した重大さを見落とします。
警察の追跡が直接のきっかけであり、連合赤軍の武装化と内部崩壊がその背景にあった。この二つを分けて理解することが、事件の全体像をつかむ鍵です。