「社青同解放派」と「革労協」は、同じ組織なのでしょうか。
結論からいえば、両者は同じ政治潮流に属しますが、もともとは組織上の意味が異なります。
社青同解放派は、1960年代に日本社会主義青年同盟、略称「社青同」の内部から生まれた政治潮流・党派です。
一方、革労協は「革命的労働者協会」の略称で、社青同解放派が1969年に結成した中核的な政治組織です。
つまり、本来の関係は次のように整理できます。
「社青同解放派」という広い政治潮流の中心組織が「革労協」だった。
ただし、社会党系の社青同と決別し、さらに組織分裂を繰り返した結果、現在では「社青同解放派」と「革労協」がほぼ同じ意味で使われる場面もあります。
今回は、社青同解放派がどのように誕生したのか、革労協とは何が違うのか、1981年と1999年の分裂によって現在の三つの潮流がどのように形成されたのかを整理します。
社青同解放派とは
社青同解放派とは、1965年に日本社会主義青年同盟の内部で形成された、新左翼系の政治党派です。
「社青同」は「しゃせいどう」、「解放派」は「かいほうは」と読みます。
正式名称は「日本社会主義青年同盟解放派」とされますが、活動時期や組織によっては「社青同学生班協議会解放派」「社青同解放派(東京)」などの名称も使われました。
重要なのは、社青同解放派が日本社会主義青年同盟の全体を意味するわけではないことです。
社青同という大きな青年組織の内部には、社会主義協会系、構造改革派、解放派など複数の潮流が存在していました。その中で、より急進的な革命路線を唱えた一派が解放派です。
法政大学大原社会問題研究所の『社会・労働運動大年表』も、社青同の発足後、構造改革派、社会主義協会派、解放派などが内部で競合し、組織的な混乱が生じたと説明しています。
そもそも社青同とは
日本社会主義青年同盟は、1960年10月15日に結成された社会主義青年組織です。
1960年安保闘争や三井三池争議に参加した日本社会党青年部の活動家などが中心となり、日本社会党と密接な関係を持つ青年運動として出発しました。
結成時の社青同は、社会主義の実現、平和と民主主義、憲法擁護、科学的社会主義の学習などを掲げていました。
しかし、社青同は初めから思想的に統一された組織ではありませんでした。
社会党の議会活動や労働組合運動を通じて社会主義を目指す立場がある一方、議会中心の運動では資本主義体制を変えられないと考える急進派も存在しました。
さらに、ソ連型社会主義をどう評価するか、日本共産党をどう見るか、前衛党をどのようにつくるか、学生運動と労働運動のどちらを重視するかをめぐっても対立がありました。
社青同解放派は、この複雑な内部対立の中から生まれた一潮流です。
したがって、「社青同がそのまま解放派になった」のではなく、「社青同の一部から解放派が形成された」と理解する必要があります。
解放派はどのように生まれたのか
解放派の理論的な出発点は、1961年前後に社青同の学生組織内で形成された研究・活動グループにあったとされています。
党派側の組織史では、1961年に社青同学生班の機関誌『解放』へ掲載された文書を、思想潮流としての解放派の出発点と位置づけています。
その後、1965年3月に学生組織である「日本社会主義青年同盟全国学生班協議会解放派」が、同年9月には「社青同解放派(東京)」が結成されたと整理されています。
警察庁の『昭和63年警察白書』も、1965年に社青同解放派が組織され、1969年に革労協が結成されたという流れを記載しています。
ただし、同白書は治安機関の立場から、活動家が社青同へ「潜入」したという表現を使っています。
これは公的機関による歴史記録ではありますが、当事者側は、自分たちを社青同内部の政治闘争から生まれた革命的潮流と説明しています。
そのため、組織の成立過程を見るときは、警察側の評価と党派側の自己認識を分けて読む必要があります。
学生運動ではどのような位置にいたのか
社青同解放派は、1960年代後半の学生運動で有力な新左翼党派の一つとなりました。
1966年には、共産主義者同盟系、中核派、社青同解放派を中心とする、いわゆる「三派系全学連」が結成されます。
この三派系全学連は、羽田闘争、ベトナム反戦運動、大学闘争、1968年の新宿騒乱などに参加しました。
解放派系の学生組織としては、全国反帝学生評議会連合、通称「反帝学評」が知られています。
当時の解放派は、単に大学内の自治会を掌握するだけでなく、学生、青年労働者、労働組合活動家を結びつける運動を目指しました。
一方、全共闘は大学ごとの闘争組織であり、解放派のような特定党派とは性格が異なります。
全共闘の中に解放派の活動家が参加することはありましたが、「全共闘=解放派」ではありません。
1969年に革労協を結成
社青同解放派は、1969年9月に革命的労働者協会を結成しました。
国立国会図書館には、『結成宣言―革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)』が所蔵されています。出版者は現代社、発行時期は1969年9月と記録されています。
この資料には、結成宣言、暫定規約、政治テーゼのほか、「行動委運動の中からの党」という組織論に関する文書が収録されています。
革労協は、学生運動だけの組織ではなく、労働者を中心とする革命組織を建設することを目的としていました。
社青同解放派が政治的な潮流や運動全体を表すのに対し、革労協は、その運動を指導する中核政治組織として設けられたのです。
革労協結成後の機関紙『解放』も、題字欄に「革命的労働者協会(社会党社青同解放派)」と表示されています。CiNiiの書誌では、現代社から1969年に刊行が始まったことが確認できます。
社青同解放派と革労協の違い
| 項目 | 社青同解放派 | 革労協 |
|---|---|---|
| 正式名称 | 日本社会主義青年同盟解放派 | 革命的労働者協会 |
| 成立 | 1965年 | 1969年9月 |
| 出発点 | 社青同内部の急進的政治潮流 | 解放派が結成した中核政治組織 |
| 主な意味 | 思想、党派、学生・青年・労働者を含む運動の総称 | 政治方針と組織建設を担う中心組織 |
| 社会党系社青同との関係 | 当初は社青同内部で活動 | 結成時点では「社会党・社青同解放派」を名乗った |
| 現在の用法 | 革労協系諸派の歴史的系譜を指す場合が多い | 主に現代社派と赤砦社派の二組織を指す |
簡単にいえば、解放派が「政治的な家系・潮流」、革労協が「その中心組織」です。
ただし、実際の運動には複数の組織が存在しました。
学生部門には反帝学評、青年組織には社青同、幅広い運動の枠組みにはプロレタリア統一戦線、そして中核政治組織には革労協が置かれていました。
そのため、当時の「解放派」は、革労協だけでなく、学生組織、青年組織、労働運動組織などを含む組織群として見るほうが実態に近いでしょう。
一方、分裂後は組織の境界が変化し、「解放派」「革労協」「革労協解放派」が同じ党派を指すように使われることも増えました。
1971年に社会党系の社青同と断絶
1960年代後半、社青同内部では社会主義協会系と解放派などの急進派との対立が激しくなりました。
解放派はすでに独自の政治組織である革労協をつくっていましたが、「社会党・社青同解放派」という名称を維持し、社会党や社青同の内部でも活動を続けていました。
しかし、1971年2月の社青同第10回大会を境に、解放派は社会党系の社青同から組織的に排除されました。
同年9月、解放派は独自に「社青同第10回再建全国大会」を開き、自派系の日本社会主義青年同盟を組織したとされています。
ここから、「社青同」という名前の組織が複数存在する状態になります。
一つは、日本社会党と関係を維持した社青同です。
もう一つは、革労協・解放派の系列に置かれた社青同です。
したがって、1971年以降の「社青同解放派」は、もはや社会党系社青同の内部派閥ではありません。
現在の正式名称に「社会党社青同解放派」という言葉が残っていても、現在の社会民主党やその青年組織の一部という意味ではありません。1960年代の出自を示す歴史的名称です。
解放派の思想的な特徴
解放派は、自らの理論を「マルクス主義の復権」や「世界プロレタリア革命」という言葉で表現してきました。
日本共産党については、スターリン主義的で官僚的な党だと批判しました。
同時に、社会党の議会主義や社会民主主義についても、資本主義の枠内に労働運動をとどめるものだとして批判しました。
また、レーニン主義的な前衛党が外部から労働者を指導するという考え方にも批判的で、労働者自身の闘争や「行動委員会」の中から革命組織を形成することを重視しました。
東京大学出版会の『日本における「新左翼」の労働運動』にも、「社青同解放派と『行動委員会』運動」という研究が収録されています。
ただし、党の官僚化や上意下達を批判した理論と、後年の組織運営が一致していたとは限りません。
1970年代以降、解放派・革労協も非公然組織や軍事部門を形成し、敵対党派への報復や内部対立をめぐって強い統制を取るようになります。
「反官僚主義」を掲げた党派が、なぜ厳格な組織統制と暴力的抗争へ向かったのかは、解放派史を考えるうえで大きな論点です。
中核派・革マル派とは別の系譜
革労協は、中核派や革マル派から分裂してできた組織ではありません。
中核派と革マル派は、革命的共産主義者同盟、略称「革共同」が1963年に分裂して生まれた党派です。
これに対して、解放派は日本社会党系の社青同内部から生まれました。
三派系全学連などで中核派と共同行動を取った時期はありますが、組織的には別の系譜です。
また、革マル派とは1970年代に激しい党派間抗争へ発展しました。
この抗争は単純な思想論争ではなく、大学の自治会、拠点、活動家の引き抜き、集会の主導権、過去の襲撃への報復などが重なったものです。
1977年には解放派の最高幹部だった中原一が殺害され、解放派側は革マル派による攻撃と断定して報復を宣言しました。
その後の報復路線をどこまで続けるかが、革労協内部の対立を深める一因になります。
最初の大分裂――1980年から1981年
革労協・社青同解放派は、1980年から1981年にかけて大きく分裂しました。
分裂したのは、おおむね次の二つの潮流です。
狭間派・現代社派
狭間嘉明らを中心とし、革労協の名称、機関紙『解放』、公然拠点である現代社を引き継いだ潮流です。
後に「革労協主流派」「狭間派」「現代社派」などと呼ばれるようになりました。
労対派・解放派全協
労働運動部門の活動家を中心とし、狭間派の軍事・報復路線や組織運営を批判した潮流です。
後に「革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会」、略称「解放派全協」として活動するようになります。
両者の対立には、革マル派への報復を優先するのか、労働運動や大衆運動を重視するのかという路線問題がありました。
同時に、指導部の権限、非公然組織の統制、党内民主主義、過去の事件に対する責任など、組織運営をめぐる争いも重なっていました。
ただし、各派は分裂の原因や先に攻撃した側について異なる説明をしています。
警察白書は、1981年に革労協の組織分裂に伴う内ゲバ事件が4件発生したと記録しています。
国立国会図書館の書誌では、解放派全協系の機関誌『プロレタリア革命』が1981年7月から刊行されています。同誌は1996年まで続き、1997年から『連帯』に改題されました。
この分裂によって、「解放派」という名称が一つの統一組織を表さなくなりました。
1999年の再分裂
1981年の分裂後も、現代社を拠点とする革労協側は一つの組織として活動を続けました。
しかし、1999年5月、この革労協が再び分裂します。
警察白書では、狭間嘉明を中心とするグループを「主流派」、山田茂樹を中心とするグループを「反主流派」と記載しています。
現在、主流派の正式名称は「革命的労働者協会(社会党社青同解放派)」です。公然拠点から「現代社派」とも呼ばれます。
反主流派の正式名称は「革命的労働者協会(解放派)」です。機関紙・公然拠点の名称から「赤砦社派」とも呼ばれます。
分裂後、両派の対立は暴力事件へ発展しました。
警察庁は、1999年の分裂から2005年6月までに、両派間で13件の内ゲバ事件が起こり、8人が殺害されたと記録しています。さらに、別の内ゲバ容疑事件でも2人が死亡しました。
これらは警察による事件認定と人数集計です。個別事件について各派の主張が対立する場合はありますが、分裂が多数の死者を伴う深刻な抗争に発展したこと自体は、解放派史から外すことのできない事実です。
現在は三つの流れに分かれている
2026年時点の系譜を整理すると、旧社青同解放派から生まれた主な潮流は三つあります。
| 現在の組織・潮流 | 通称 | 成立の経緯 | 主な機関紙・拠点 |
|---|---|---|---|
| 革命的労働者協会(社会党社青同解放派) | 革労協主流派、現代社派、狭間派 | 1981年の分裂後、革労協の名称を維持。1999年の再分裂では主流派 | 『解放』、現代社 |
| 革命的労働者協会(解放派) | 革労協反主流派、赤砦社派 | 1999年に現代社派から分裂 | 『解放』、赤砦社 |
| 革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会 | 解放派全協、労対派、連帯社派 | 1980~81年の最初の分裂で別組織化 | 『連帯』、連帯社 |
警察白書は、現代社派を「革労協主流派」、赤砦社派を「革労協反主流派」と分類しています。
2025年版警察白書によると、2024年には主流派が成田空港反対運動を、反主流派が反戦・反基地運動を重点的に行ったとされています。
一方、解放派全協は通常、この警察白書上の「革労協主流派・反主流派」という二分法には含まれません。
しかし、国立国会図書館には、解放派全協中央事務局が編集する『連帯』の2026年3月号が登録されており、別系統の刊行活動が続いていることを確認できます。
したがって、旧解放派の系譜を歴史的に見る場合は、警察白書が示す二つの革労協に、解放派全協を加えた三潮流として整理するのがわかりやすいでしょう。
なぜ「社青同」という名前が残っているのか
現代社派の正式名称は、現在も「革命的労働者協会(社会党社青同解放派)」です。
しかし、日本社会党は1996年に社会民主党へ名称を変更しており、現在の社民党が革労協を傘下に置いているわけではありません。
また、現在の社民党関係者や、社会党系青年運動の流れをくむ団体を「解放派」とみなすこともできません。
正式名称に残る「社会党社青同」は、1960年代に日本社会党系の社青同内部から生まれたという歴史的な出自を表しています。
警察庁の資料でも、現代社派の正式名称を「革命的労働者協会(社会党社青同解放派)」、赤砦社派を「革命的労働者協会(解放派)」と区別しています。
名称に「社会党」と書かれているからといって、現在の政党との指揮命令関係や資金関係があると判断するのは誤りです。
社青同解放派をめぐるよくある誤解
社青同全体が過激派だったわけではない
社青同解放派は、社青同内部に存在した複数潮流の一つです。
社青同全体と解放派を同一視すると、社会党青年運動の幅広い歴史を正確に理解できません。
革労協は解放派と無関係な別組織ではない
革労協は解放派が1969年に結成した中心政治組織です。
両者は別系統ではなく、同じ系譜の中で組織上の役割が異なっていました。
中核派や革マル派から分裂したのではない
中核派と革マル派は革共同系、革労協は社青同解放派系です。
学生運動で共闘または対立したことはありますが、出身組織が違います。
現在の革労協は一つではない
1999年以降、少なくとも現代社派と赤砦社派という二つの革労協が存在します。
さらに、1981年に分かれた解放派全協も、同じ歴史的系譜に属します。
単に「革労協が声明を出した」と報じられた場合は、どの組織なのかを確認する必要があります。
機関紙が同じ名前でも同一組織とは限らない
分裂した諸派は、歴史的正統性を主張するため、似た名称や同じ「解放」という言葉を使用します。
団体名だけでなく、括弧内の正式名称、発行元、出版社、公然拠点まで確認することが重要です。
分裂の歴史を年表で整理
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1960年 | 日本社会主義青年同盟が結成される |
| 1961年ごろ | 社青同学生組織内で、後の解放派につながる思想潮流が形成される |
| 1965年 | 社青同解放派が組織化される |
| 1966年 | 共産同系、中核派、社青同解放派を中心に三派系全学連が結成される |
| 1969年9月 | 革命的労働者協会が結成される |
| 1971年 | 解放派が社会党系社青同から排除され、独自の社青同を組織 |
| 1970年代 | 革マル派との党派間抗争が激化 |
| 1980~81年 | 現代社派と、後の解放派全協につながる労対派に分裂 |
| 1997年 | 解放派全協系機関誌が『プロレタリア革命』から『連帯』へ改題 |
| 1999年5月 | 現代社派が主流派と反主流派に再分裂 |
| 1999~2000年代 | 主流派と反主流派の間で内ゲバ事件が相次ぐ |
| 現在 | 現代社派、赤砦社派、解放派全協という三つの流れが確認できる |
まとめ
社青同解放派は、1965年に日本社会主義青年同盟の内部から生まれた新左翼党派です。
革労協は、その社青同解放派が1969年に結成した中核的な政治組織でした。
したがって、もともとの両者は完全な同義語ではありません。
社青同解放派が政治潮流・組織群の総称、革労協がその中心政治組織という関係です。
1971年には社会党系社青同との関係が切れ、1980年から1981年にかけて現代社派と解放派全協系に分裂しました。
さらに1999年、現代社派が主流派と赤砦社派に分裂し、その対立は死者を伴う内ゲバ事件に発展しました。
現在、旧社青同解放派の主な系譜は、革労協主流派である現代社派、革労協反主流派である赤砦社派、そして解放派全協の三つに分けて整理できます。
「社青同」「社青同解放派」「革労協」を区別し、さらにどの分裂後組織を指しているのかを確認することが、複雑な解放派の歴史を理解するポイントです。