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革労協はなぜ二つに分裂した?現代社派と赤砦社派の違い


革労協を調べると、「現代社派」「赤砦社派」という二つの名前が出てきます。同じ組織から分かれたのなら、何が対立の原因だったのでしょうか。

最初に名称を確認しておきましょう。今回比較するのは、1999年に分裂した革労協の現代社派と赤砦社派です。ご指定の「解放社派」は、この対比で一般に使われる呼称ではありません。「解放社」は別組織である革マル派の拠点の名称です。公安調査庁の資料も、革労協の二派を「現代社」「赤砦社」、革マル派を「解放社」と区別しています。

結論から言えば、1999年の分裂は「革命の目標が正反対になったから」と一言で説明できるものではありません。指導部をめぐる対立が組織の主導権争いに発展し、活動家や運動の拠点をどちらが維持するかという争いを伴って、二派に分かれました。ただし、公開資料から対立の発端を一つの出来事だけに確定することはできません。

革労協とは何か

革労協は「革命的労働者協会」の略称です。社会党・社青同解放派の流れをくむ新左翼の政治組織として1969年に結成されました。国立情報学研究所の書誌には、同年刊行の結成宣言が記録されています。

名称に「社会党」「社青同」が入っていても、現在の革労協を、かつての日本社会党や日本社会主義青年同盟の一部門として理解するのは適切ではありません。この名称は組織の歴史的な出自を示すものです。

また、「革労協」という名前が歴史上つねに一つの組織だけを指してきたわけでもありません。1999年の対立を理解するには、それより前の分裂を分けて考える必要があります。

まず1980年代に分裂し、1999年に再び分裂した

革労協系の運動には、1980年代初めに狭間派と労対派へ分かれた経緯があります。後者の流れには「解放派全協」があり、国立国会図書館には、その機関誌『プロレタリア革命』や『連帯』の書誌が残っています。

今回の主題である1999年の分裂は、それとは別です。先に分かれた狭間派の内部で、さらに狭間嘉明氏を中心とする側と山田茂樹氏を中心とする側が対立したのです。

警察庁の『平成12年警察白書』は、革労協狭間派が1999年5月に狭間氏を中心とする「主流派」と、山田氏を中心とする「反主流派」に事実上分裂したと記録しています。公安調査庁の後年の資料には「1999年6月の分裂」という表記もあります。経緯を説明する際は、1999年5~6月に分裂が表面化・固定化したと捉えるのが慎重でしょう。

現代社派と赤砦社派の違い

比較する点現代社派赤砦社派
1999年の区分主流派反主流派
分裂当時の中心人物狭間嘉明氏山田茂樹氏
名称の由来となる拠点現代社赤砦社
警察庁資料に記された正式名称革命的労働者協会(社会党社青同解放派)革命的労働者協会(解放派)
2024年の活動で重点とされたもの成田闘争反戦・反基地闘争

拠点の名称は公安調査庁、正式名称と2024年の活動上の重点は警察庁の資料に基づきます。人物名はあくまで1999年の分裂当時の区分であり、現在の役員名簿を示すものではありません。また、「主流派」という呼び名は、どちらが思想的に正しいかを公的機関が認定したという意味ではありません。

なぜ分裂したのか――確認できるのは主導権争い

分裂の経緯について、警察白書が明確に記すのは、狭間氏側と山田氏側への分裂後、双方が相手側の活動家を切り崩したり引き戻したりしようとして、主導権争いを続けたという点です。

組織にとって主導権とは、単に代表者の名前を決めることではありません。誰が組織の方針を決め、どの活動家がどちらに従い、学生運動などの拠点をどちらが維持するのかに関わります。分裂後に拠点をめぐる衝突が起きたことからも、対立が指導部内の意見交換だけでは収まらなかったことが分かります。

一方、「特定の大学での一つの争いが唯一の原因だった」「片方が穏健で、もう片方だけが強硬だった」と断定するには注意が必要です。分裂当事者による説明は互いに対立し、公開された第三者資料だけでは、個々の出来事が指導部対立の原因だったのか、すでに進んでいた対立の現れだったのかまで確定しにくいためです。

したがって、確認できる事実としては、指導部の対立が組織と活動拠点の主導権争いへ発展したと整理できます。その背景にあった個別の路線論争を、資料の裏付けなしに単一の「真の原因」として語るべきではありません。

分裂後には死者を出す内ゲバが起きた

この分裂は、二つの団体が平穏に別れた出来事ではありませんでした。

警察庁によると、1999年には両派間で5件の内ゲバ事件が起き、活動家3人が死亡、1人が重傷を負いました。2000年2月にも3件が相次ぎ、2人が死亡しています。1999年7月には、反主流派の拠点となっていた都内の大学校舎への侵入事件で、主流派の活動家が検挙されました。

対立はその後も続きました。『平成17年警察白書』は、2005年6月までに認知された内ゲバ事件13件で8人が殺害されたと記しています。これとは別に、2004年6月には2人が死亡した内ゲバ容疑事件があり、当時捜査中とされていました。後者を、前者と同じ確定済み事件として扱わない点に注意が必要です。

現在の活動の違いは「担当分野」のようなものか

分裂後の両派については、取り組む課題にも傾向の違いが見られます。警察庁の『令和7年警察白書』は、2024年の活動について、主流派は成田闘争、反主流派は反戦・反基地闘争を重点にしたと記載しています。公安調査庁の過去の資料にも同様の区分があります。

ただし、これは「現代社派は空港問題だけ」「赤砦社派は基地問題だけ」という排他的な区分ではありません。特定の年に目立った活動上の重点を比較したものです。また、重点の違いを1999年の分裂原因へそのままさかのぼらせることもできません。

「一方は革命路線を捨てた穏健派」という理解も不正確です。公安調査庁は、分裂後の両派が武装闘争路線を維持していると記述しています。活動課題の違いと、基本的な政治路線が正反対であることは別の話です。

「解放社派」と「赤砦社派」は違う

名称が混乱しやすいのは、革労協の歴史に「解放派」という言葉が登場するうえ、革労協現代社派にも、革マル派にも『解放』という題名の刊行物があるためです。しかし、題名が同じでも発行主体は異なります。国立情報学研究所の書誌では、革労協系の『解放』は現代社、革マル派の『解放』は解放社と区別されています。

整理すると、「解放派」は革労協の系譜や名称に関わる言葉、「赤砦社」は1999年に分かれた反主流派の拠点名、「解放社」は別組織である革マル派の拠点名です。革労協の1999年の二派を比べるなら、「現代社派と赤砦社派」と書くのが正確です。

まとめ

革労協の「二つへの分裂」とは、1980年代の狭間派・労対派の分裂ではなく、1999年に狭間派の内部から現代社派と赤砦社派が分かれた出来事を指します。

確認できる中心的な経緯は、狭間嘉明氏側と山田茂樹氏側の対立が、組織の主導権や活動拠点をめぐる争いへ発展したことです。その後の両派の対立は、死者を出す内ゲバにまで至りました。

両派は現在も資料上で区別され、近年の活動では現代社派に成田闘争、赤砦社派に反戦・反基地闘争という重点の違いが見られます。ただし、その違いだけで分裂の「唯一の原因」や、どちらか一方を穏健派とする評価を導くことはできません。

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