革マル派と中核派は、日本の新左翼を代表する二つの党派です。
名前は聞いたことがあっても、「何が違うのか」「なぜ激しく対立しているのか」「日本共産党とはどのような関係なのか」までは、わかりにくいかもしれません。
実は両派は、最初から別々の思想を掲げて誕生したわけではありません。同じ革命的共産主義者同盟、通称「革共同」を源流とし、どちらも「反帝国主義・反スターリン主義」を掲げていました。
しかし、革命運動の進め方や組織の作り方を巡って対立し、1963年に革マル派と中核派へ分裂します。その後は内ゲバと呼ばれる暴力的な党派間抗争を繰り返し、修復困難な関係になりました。
この記事では、革マル派と中核派の違い、分裂の歴史、思想、活動方針、現在の状況についてわかりやすく解説します。
革マル派とは
革マル派の正式名称は、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派です。
略して革共同革マル派、一般には革マル派と呼ばれます。
理論的な指導者は黒田寛一です。黒田は、ソ連や各国の共産党に見られたスターリン主義を批判し、マルクス主義を理論的・組織的に再構築しようとしました。
革マル派は、資本主義と帝国主義に反対するだけでなく、ソ連型社会主義や既成共産党も批判する「反帝国主義・反スターリン主義」を掲げています。
理論研究と組織建設を重視し、強く統一された革命組織を作ることを優先してきた点が特徴です。
大学の学生自治会や労働組合などに影響力を持つことを重視し、内部組織や支持者の拡大を図ってきました。
中核派とは
中核派の正式名称は、革命的共産主義者同盟全国委員会です。
一般には革共同中核派、または単に中核派と呼ばれます。
中核派の主要な指導者として知られているのが本多延嘉です。
中核派も革マル派と同様に、「反帝国主義・反スターリン主義」を掲げています。資本主義体制を変革し、労働者階級を中心とする社会革命を実現することを目標とします。
中核派は、組織内部での理論形成だけでなく、労働運動、学生運動、反戦運動などの大衆運動を通じて革命運動を発展させることを重視してきました。
1960年代から1970年代には、ベトナム戦争反対運動、羽田闘争、三里塚闘争など、当時の激しい社会運動に参加しました。
現在も労働運動、学生運動、反戦・反基地運動などに取り組んでいます。
両派の源流となった革共同
革マル派と中核派の源流は、1950年代に結成された革命的共産主義者同盟です。
当時の左翼運動では、日本共産党の方針やソ連型社会主義に疑問を持つ活動家が増えていました。
ソ連ではスターリンによる政治的弾圧が明らかになり、1956年にはハンガリー動乱も発生します。
こうした出来事を受け、ソ連や共産党の指導を無条件に正しいとする考え方への批判が広がりました。
日本でも、日本共産党とは異なる革命運動を目指す新左翼勢力が登場します。その一つが革共同でした。
革共同は、資本主義やアメリカを中心とする帝国主義に反対すると同時に、ソ連や既成共産党の官僚主義にも反対する立場を掲げました。
これが「反帝国主義・反スターリン主義」、略して「反帝・反スタ」と呼ばれる思想です。
1960年安保闘争後に勢力を拡大
1960年、日米安全保障条約の改定を巡り、全国で大規模な安保闘争が起こりました。
学生運動では、共産主義者同盟、いわゆるブントが大きな役割を果たしました。しかし、安保条約の改定を阻止できなかったことから、運動方針や責任を巡ってブントは分裂します。
その後、ブントに所属していた活動家の一部が革共同へ参加しました。
これにより革共同は勢力を拡大しましたが、さまざまな経歴や考え方を持つ活動家が集まったことで、組織運営や闘争方針を巡る対立も強くなりました。
1963年に革マル派と中核派へ分裂
革共同は1963年、闘争路線や組織建設を巡る対立によって分裂しました。
黒田寛一を中心とする勢力が革マル派を形成し、本多延嘉らを中心とする勢力は革共同全国委員会を維持して中核派と呼ばれるようになります。
分裂の理由を単純化すると、革命組織の理論と内部建設をどこまで優先するか、大衆運動や現実の政治闘争へどのように参加するかという違いでした。
革マル派は、理論的に鍛えられた組織を建設し、労働組合や学生組織の内部で影響力を拡大することを重視しました。
中核派は、労働者や学生による大衆運動、街頭闘争、政治課題への直接的な取り組みを重視しました。
ただし、革マル派が大衆運動を行わなかったわけでも、中核派が組織建設を軽視したわけでもありません。
どちらも理論、組織、大衆運動を必要としていましたが、その優先順位や進め方が異なっていたのです。
共通する「反帝国主義」とは
両派が掲げる反帝国主義とは、資本主義が発展すると、大企業や金融資本が国家と結び付き、海外市場や資源、影響圏を求めて他国を支配しようとするという考え方です。
そのため、アメリカを中心とする国際秩序、軍事同盟、海外派兵などを批判します。
日本についても、資本主義国家であると同時に、日米安全保障体制を通じてアメリカの世界戦略に組み込まれていると捉えます。
両派が日米安保、自衛隊、基地問題、戦争、政府の外交政策などに強く反対する背景には、この反帝国主義があります。
共通する「反スターリン主義」とは
反スターリン主義とは、ソ連のスターリン体制や、そこから生まれた官僚主義的な共産主義運動を批判する立場です。
スターリン体制では、共産党官僚への権力集中、反対派への弾圧、言論統制などが行われました。
革共同は、ソ連を労働者が自由に社会を運営する理想的な社会主義国とはみなしませんでした。
また、ソ連の方針に影響を受けてきた各国の共産党も批判しました。
このため、革マル派と中核派は、日本共産党とも対立しています。
同じマルクス主義や共産主義を掲げていても、日本共産党、革マル派、中核派は別の政党・党派です。
革マル派は組織建設を重視
革マル派の特徴としてよく挙げられるのが、理論と組織建設を重視する姿勢です。
革マル派は、革命運動が失敗する原因を、単なる行動力の不足だけでなく、理論の誤りや組織の未成熟にも求めました。
そのため、構成員の思想教育、組織規律、情報管理などを重視してきました。
また、学生自治会や労働組合などの中で継続的な影響力を確保し、組織基盤を拡大する活動に力を入れました。
中核派などの他党派については、理論的に誤り、運動を破壊する存在だとして厳しく批判してきました。
この強い党派意識が、後の内ゲバを正当化する論理につながった面もあります。
中核派は大衆運動と実力闘争を重視
中核派は、労働者や学生が現実の政治闘争へ参加し、その経験を通じて革命的な意識を高めることを重視しました。
そのため、反戦、反基地、大学闘争、労働争議、成田空港建設反対運動などに積極的に参加しました。
平和的な集会やデモだけでなく、警察部隊との衝突や施設への攻撃などを伴う実力闘争も行われました。
警察当局は、中核派を極左暴力集団と位置付け、過去のテロ・ゲリラ事件や非公然活動について捜査と警戒を続けてきました。
一方、中核派自身は、自らの活動を労働者階級による資本主義への抵抗や革命運動として説明しています。
政府・警察による評価と、団体自身の説明には大きな隔たりがあります。
内ゲバとは何か
内ゲバとは、同じ左翼運動に属する党派同士、または同一組織内の対立勢力が行う暴力的な抗争です。
「ゲバ」は、ドイツ語で暴力や権力を意味する「ゲバルト」に由来します。
革マル派と中核派は、分裂後、互いを単なる意見の違う左翼勢力ではなく、革命運動を内部から破壊する敵とみなすようになりました。
大学の学生自治会や労働組合を巡る主導権争いも加わり、対立は次第に暴力的なものへ変化します。
1970年代には、活動家への襲撃や殺害事件が相次ぎました。
この抗争によって両派だけでなく、周辺の学生や関係者にも多くの犠牲が生じ、新左翼運動全体に対する社会的な支持も大きく失われました。
対立が激化したきっかけ
両派の対立は1963年の分裂直後から存在しましたが、1970年代に入ると急激に深刻化しました。
大学内での主導権争いや、相手党派の構成員をスパイとみなした事件などをきっかけに、報復が繰り返されるようになります。
1975年には、中核派の最高指導者だった本多延嘉が革マル派の構成員らによって殺害されたとされ、抗争はさらに激化しました。
中核派は報復を掲げ、革マル派関係者への攻撃を繰り返しました。革マル派も対抗し、両派の抗争は長期間続きました。
警察白書によると、1975年には極左党派間の内ゲバ事件が全国で多数発生し、その大部分を中核派と革マル派の抗争が占めました。
思想や路線を巡る論争が、相手党派そのものを物理的に排除しようとする争いへ変質したのです。
革マル派と中核派の主な違い
両派の違いを簡単に整理すると、次のようになります。
革マル派は、黒田寛一の理論的影響が強く、理論形成、組織建設、内部規律を重視します。
中核派は、本多延嘉らの路線を受け継ぎ、労働運動、学生運動、反戦運動などの大衆闘争を重視します。
革マル派は、労働組合や学生自治会などの内部で継続的な組織基盤を作る傾向があります。
中核派は、政治課題に対する集会、デモ、ストライキなど、外部へ向けた動員を重視する傾向があります。
ただし、両派とも反帝国主義・反スターリン主義を掲げ、資本主義体制の変革を目指す点では共通しています。
違いは最終目標よりも、革命に至るまでの組織論、運動論、他党派への評価に強く表れています。
日本赤軍や連合赤軍とは別の組織
革マル派や中核派は、日本赤軍や連合赤軍と混同されることがあります。
しかし、これらは別の系列の組織です。
日本赤軍や連合赤軍は、共産主義者同盟赤軍派などを源流としています。一方、革マル派と中核派は革共同を源流としています。
いずれも日本の新左翼運動に含まれますが、組織の歴史、指導者、理論、活動方針は異なります。
また、日本共産党とも組織的な関係はなく、むしろ既成共産党として批判する立場です。
現在も活動しているのか
革マル派と中核派は、いずれも現在まで組織活動を続けています。
両派は、戦争、軍事基地、憲法改正、原子力発電、労働問題、大学政策などについて、それぞれ集会、デモ、機関紙発行、学習会などを行っています。
公安調査庁の公表資料でも、2026年に両派がロシアによるウクライナ侵略に反対する集会やデモを、それぞれ別に実施したことが確認できます。
かつてのような大規模な学生運動を主導する勢力ではありませんが、労働組合や大学などを通じた組織拡大を引き続き目指しています。
警察は、両派を極左暴力集団として位置付け、過去の事件や組織的な活動との関係から動向を注視しています。
ただし、現在行われている個々の集会、出版、演説、デモが、すべて違法という意味ではありません。合法的な政治活動と具体的な違法行為は分けて考える必要があります。
まとめ
革マル派と中核派は、どちらも革命的共産主義者同盟を源流とする日本の新左翼党派です。
両派は、資本主義と帝国主義に反対すると同時に、ソ連型社会主義や既成共産党を批判する「反帝国主義・反スターリン主義」を掲げています。
1963年、理論と組織建設を重視する黒田寛一らの革マル派と、大衆運動や現実の政治闘争を重視する本多延嘉らの中核派に分裂しました。
両派の違いは、目指す社会の基本方向よりも、革命運動の進め方、組織の作り方、大衆運動の位置付けにあります。
その対立は1970年代に暴力的な内ゲバへ発展し、多くの犠牲者を出すとともに、新左翼運動全体が社会的信用を失う大きな原因になりました。
現在も両派は別々の組織として活動を続けています。
革マル派と中核派を理解するには、単に「過激派」として一括りにするのではなく、同じ源流から分裂し、組織論と運動論の違いが深刻な党派抗争へ発展した歴史を見ることが重要です。