中核派、革マル派、革労協、赤軍派。
日本の学生運動や新左翼の歴史を調べると、似たような名称の党派が次々に登場します。
ニュースではまとめて「過激派」と呼ばれることもありますが、これらは同じ組織ではありません。
中核派と革マル派は「革共同」という組織から分裂しました。
革労協は社会党系の青年組織に生まれた「社青同解放派」を源流とします。
赤軍派は、共産主義者同盟、通称「ブント」から分かれた組織です。
つまり、四つの代表的な党派を理解するには、一本の組織が四つに分裂したと考えるのではなく、少なくとも三つの異なる系統に分ける必要があります。
今回は、日本共産党との違い、新左翼が誕生した背景、中核派と革マル派の対立、革労協や赤軍派の成立、その後の分裂までを整理します。
新左翼とは何か
新左翼とは、1950年代後半以降、日本共産党やソ連型社会主義を批判し、独自の革命運動を展開した左翼勢力の総称です。
一つの正式な組織名ではありません。
日本共産党や社会党など、既成の左翼政党を「旧左翼」と見なし、それとは異なる革命運動を目指したさまざまな党派が新左翼と呼ばれました。
新左翼の多くは、マルクス主義や共産主義を掲げながらも、ソ連を官僚独裁国家、スターリン主義国家として批判しました。
日本共産党についても、議会選挙や合法的な大衆運動を重視し、革命を先送りしていると批判しました。
ただし、新左翼全体が最初から武装闘争を行っていたわけではありません。
理論研究、労働運動、学生自治会、反戦運動などを中心に活動した集団もあり、暴力革命やテロへ進んだ党派との間には大きな違いがあります。
「新左翼」と「過激派」は、完全な同義語ではないのです。
「過激派」は誰が使う言葉なのか
警察庁は、暴力革命による共産主義社会の実現を目指し、過去にゲリラ事件や内ゲバ事件などを起こした集団を「極左暴力集団」や「過激派」と呼んでいます。
一方、各党派は自らを革命党、革命的共産主義者、労働者組織などと位置づけ、警察による「過激派」という呼称を認めていません。
したがって、「過激派」は主に警察・公安側の分類であり、「新左翼」は政治思想史や社会運動史上の広い分類と考えると分かりやすいでしょう。
また、反戦運動、反原発運動、労働運動に参加している人が、すべて新左翼党派の構成員というわけでもありません。
同じデモや集会に一般市民、労働組合、市民団体、政党、新左翼党派が参加することはありますが、会場にいたことだけで特定組織のメンバーとは断定できません。
四党派は三つの系統に分かれる
中核派、革マル派、革労協、赤軍派の源流は、次のように整理できます。
第一の系統は、日本革命的共産主義者同盟、略称「革共同」です。
革共同が1963年に分裂し、中核派と革マル派が生まれました。
第二の系統は、日本社会党の青年組織だった日本社会主義青年同盟、略称「社青同」です。
その中の急進派である社青同解放派から、後の革労協が形成されました。
第三の系統は、共産主義者同盟、通称「ブント」です。
再建された第二次ブントの中から、1969年に赤軍派が分裂しました。
したがって、中核派から赤軍派が生まれたわけでも、革マル派から革労協が分かれたわけでもありません。
思想上の共通点や共同闘争はありましたが、組織の家系は別です。
日本共産党と新左翼の違い
日本共産党と新左翼は、ともに共産主義やマルクス主義の影響を受けましたが、組織的には対立関係にありました。
戦後初期、日本共産党は学生運動に強い影響力を持っていました。
しかし、1950年代に入ると、ソ連や中国の方針、日本国内での武装闘争路線、その後の路線転換をめぐって党内外に混乱が生じます。
1955年、日本共産党は武装闘争路線を事実上放棄し、合法的な政治活動を重視する方向へ転換しました。
これに対し、若い活動家の一部は、日本共産党を官僚的で革命性を失った組織だと批判しました。
こうした反発から、新左翼の諸党派が生まれます。
新左翼側は日本共産党系の学生組織を「代々木派」と呼ぶことがありました。これは当時の日本共産党本部が東京・代々木にあったことに由来します。
日本共産党側も新左翼を「トロツキスト」「ニセ左翼暴力集団」などと批判しました。
同じ左翼であっても、両者は協力関係ではなく、大学自治会や学生運動の主導権をめぐって激しく対立しました。
革共同とは
中核派と革マル派の共通の源流が、日本革命的共産主義者同盟です。
略称は「革共同」です。
革共同は1957年に結成されました。
ソ連のスターリン体制と日本共産党を批判し、トロツキーの影響を受けた反スターリン主義を掲げたことが特徴です。
ただし、革共同の内部でも、理論、党組織のあり方、大衆運動への関わり方をめぐって対立が続きました。
いくつかの分裂を経た後、黒田寛一と本多延嘉を中心とする革共同全国委員会が形成されます。
ところが、この全国委員会も1963年に分裂しました。
本多延嘉を中心とする勢力が中核派、黒田寛一を中心とする勢力が革マル派となります。
中核派とは
中核派の正式名称は「革命的共産主義者同盟全国委員会」です。
革共同の全国委員会を自分たちが継承しているという立場から、正式名称には「中核派」という言葉が入りません。
「中核派」は通称です。
1963年の分裂では、本多延嘉を中心とする多数派が中核派となりました。
中核派は、労働者や学生による大衆運動を拡大し、その中から革命的な情勢をつくることを重視しました。
1960年代後半には、全学連や各大学の学生組織を通じ、ベトナム反戦運動、成田空港建設反対闘争、沖縄返還、大学闘争などに参加しました。
街頭では、機動隊との衝突や投石、火炎瓶の使用など、激しい実力闘争を展開しました。
1970年代以降は、成田空港関連施設、国鉄、自衛隊、政府関係施設などを対象としたゲリラ事件にも関与したとされています。
現在は、機関紙「前進」を発行し、労働運動、反戦運動、反原発運動、学生運動などを通じて活動しています。
警察庁は、中核派が現在も暴力革命の方針を維持している「極左暴力集団」だと位置づけています。
一方、中核派側は警察の説明を批判し、自らの活動を労働者革命や反戦闘争の一環と主張しています。
中核派も一枚岩ではない
中核派は1963年の結成後、常に一つの組織だったわけではありません。
2006年から2007年ごろにかけて、党中央と関西地方委員会の対立が表面化し、関西地方委員会が事実上分裂しました。
警察庁は、中央指導部を「中核派党中央」、分裂した側を「関西反中央派」などと呼んで区別しています。
党中央は国鉄・労働運動や学生運動を重視し、関西側は反戦、反基地、反原発、市民運動などへの参加を続けています。
同じ「中核派」という源流を持っていても、現在の組織や指導系統は同一ではありません。
革マル派とは
革マル派の正式名称は「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」です。
1963年、黒田寛一を中心として結成されました。
「革マル」は「革命的マルクス主義」の略です。
革マル派は、革命を実現するには、まず理論的、組織的に強固な革命党を建設する必要があると主張しました。
大衆運動の盛り上がりをそのまま革命へ結びつけようとする姿勢を批判し、組織の維持、秘密性、メンバー教育を重視した点が特徴です。
大学では早稲田大学などに強い影響力を持った時期があり、学生自治会や文化団体、学園祭などをめぐって他党派や大学当局と対立しました。
労働運動では、国鉄やJR関係の労働組合との関係が繰り返し注目されてきました。
政府は国会答弁で、JR総連やJR東労組の中に、影響力を行使できる立場の革マル派活動家が相当浸透しているとみていると説明したことがあります。
ただし、労働組合側はこうした見方に反論してきました。
個々の組合員を革マル派と断定するには、単なる所属先ではなく、具体的な根拠が必要です。
中核派と革マル派はなぜ争ったのか
中核派と革マル派は、もともと同じ革共同に所属していました。
だからこそ、分裂後の対立は激しいものになりました。
中核派は、革マル派について、大衆闘争を妨害し、組織防衛を優先する集団だと批判しました。
革マル派は、中核派について、理論を欠いた冒険主義的な武装闘争へ進んでいると批判しました。
対立は論争にとどまらず、相手党派の活動家を襲撃する「内ゲバ」に発展しました。
双方は相手の拠点、大学、住居などを調査し、鉄パイプや刃物などを使った襲撃を繰り返しました。
1975年には、中核派の最高指導者だった本多延嘉が革マル派の襲撃によって殺害されました。
中核派は報復を宣言し、両派の抗争はさらに激化します。
多数の死傷者を出した中核派と革マル派の内ゲバは、新左翼運動が一般の学生や市民から支持を失った大きな原因の一つです。
両派は同じ反スターリン主義を掲げながら、政府や資本家よりも先に、互いを革命運動の最大の敵とみなすようになったのです。
革労協とは
革労協は「革命的労働者協会」の略称です。
中核派や革マル派と同じ革共同系の組織と思われがちですが、源流は異なります。
革労協の源流は、日本社会党の青年組織だった日本社会主義青年同盟、略称「社青同」の中に形成された解放派です。
社青同解放派は1960年代半ばに登場し、日本社会党や社青同の議会主義的な路線を批判しました。
思想的には、革命を指導する党だけを絶対視するのではなく、労働者階級自身の自己解放を重視する立場を掲げました。
学生組織としては反帝学生評議会、通称「反帝学評」を形成し、明治大学などを拠点として学生運動に参加しました。
その後、組織の再編を経て、1980年代初めに革命的労働者協会、革労協が成立します。
成田空港建設反対闘争、反戦、反基地闘争などを重視し、過去には爆発物や飛翔弾を使った事件を起こしたと警察から認定されています。
革労協も二つに分裂している
革労協は1999年、組織運営や指導部をめぐる対立から大きく二つに分裂しました。
一方は、警察庁から「革労協主流派」と呼ばれる組織です。
機関紙・理論誌を発行する現代社にちなみ、「現代社派」とも呼ばれます。
正式名称は「革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)」です。
もう一方は、警察庁から「革労協反主流派」と呼ばれる組織です。
赤砦社を活動拠点とすることから「赤砦社派」と呼ばれ、正式には「革命的労働者協会(解放派)」を名乗っています。
分裂後、両派の間でも激しい内ゲバが起き、死者が出ました。
現在も両者は別組織として活動しています。
したがって、現在「革労協」とだけ書かれている場合は、現代社派と赤砦社派のどちらを指しているのか確認する必要があります。
赤軍派とは
赤軍派の正式名称は「共産主義者同盟赤軍派」です。
母体は、1966年に再建された共産主義者同盟、いわゆる第二次ブントです。
共産主義者同盟は、1958年に日本共産党へ反発した学生運動家らが結成した組織で、1960年安保闘争を主導しました。
安保闘争後にいったん解体状態となりましたが、1966年に再建されます。
その第二次ブントの中で、塩見孝也らは、革命を待つのではなく、直ちに武装蜂起を準備すべきだと主張しました。
このグループが1969年に赤軍派として独立します。
赤軍派は「前段階武装蜂起論」を掲げ、首相官邸や警察施設への攻撃、武器の調達、軍事訓練などを計画しました。
しかし、1969年の大菩薩峠事件でメンバー53人が逮捕され、翌1970年には塩見も逮捕されました。
指導部を失った赤軍派は、その後、複数の方向へ分かれていきます。
赤軍派から生まれた三つの流れ
赤軍派の一部は、1970年3月、日本航空のよど号をハイジャックして北朝鮮へ渡りました。
この実行犯と、後に北朝鮮で形成された家族・関係者の集団が「よど号グループ」です。
重信房子らは中東へ渡り、パレスチナ解放人民戦線などと連携しました。
この海外組を母体として日本赤軍が形成され、空港襲撃、大使館占拠、航空機ハイジャックなどの国際テロ事件を起こしました。
国内に残った赤軍派は、銃砲店襲撃などを行っていた革命左派と合流し、1971年に連合赤軍を結成しました。
連合赤軍は山岳基地でメンバーへの粛清を行い、1972年のあさま山荘事件で壊滅状態となりました。
つまり、赤軍派、日本赤軍、連合赤軍、よど号グループも同一組織ではありません。
赤軍派が源流、日本赤軍と連合赤軍が異なる後継組織、よど号グループが北朝鮮へ渡った実行犯を中心とする集団です。
赤軍派と中核派は何が違うのか
赤軍派と中核派は、1960年代の街頭闘争で行動を共にすることがありました。
しかし、組織の系統は別です。
中核派は革共同系です。
赤軍派は共産同、ブント系です。
中核派は、労働運動や学生運動などの大衆闘争を拡大し、その中から革命的情勢をつくることを重視しました。
赤軍派は、少数の革命組織が先に武装蜂起を行い、それをきっかけとして世界革命へ進むという、より急進的な構想を掲げました。
赤軍派が大菩薩峠事件やよど号事件の後に急速に分解したのに対し、中核派は組織を維持し、現在も活動しています。
全学連と新左翼党派の関係
全学連は「全日本学生自治会総連合」の略称です。
新左翼党派の名称ではなく、本来は大学の学生自治会による全国組織でした。
しかし、学生運動の分裂に伴い、各党派がそれぞれ自派系の全学連を名乗るようになります。
中核派系全学連、革マル派系全学連、共産党系全学連などが並立し、「全学連」という名称だけではどの組織か分からない状態になりました。
また、1968年から1969年に広がった全共闘は、特定党派の全国組織ではありません。
大学ごとに作られた闘争組織で、新左翼各派の活動家だけでなく、既成党派に属さないノンセクトの学生も参加していました。
全学連、全共闘、中核派などを、すべて同じ組織として扱うのは正確ではありません。
なぜこれほど分裂したのか
新左翼諸党派が分裂を繰り返した理由の一つは、革命理論の違いです。
ソ連をどのように評価するのか、中国の文化大革命を支持するのか、トロツキーをどう評価するのか、日本革命を世界革命とどう結びつけるのかについて意見が異なりました。
第二の理由は、革命を起こす主体をめぐる違いです。
強固な革命党を先につくるのか、労働者の大衆運動を重視するのか、学生や少数の武装部隊が先に蜂起するのかで方針が分かれました。
第三の理由は、現実の組織主導権です。
理論上の論争だけでなく、誰が中央指導部を握るのか、大学自治会や労働組合をどの党派が支配するのかという権力争いがありました。
第四の理由は、秘密組織化です。
警察の捜査を避けるため組織が非公然化すると、内部情報が限られ、反対意見を警察への内通や裏切りと疑いやすくなります。
その結果、論争による解決が難しくなり、除名、分裂、暴力的な内ゲバへ進みました。
現在も活動しているのか
中核派、革マル派、革労協の各派は、規模や活動方法を変えながら現在も活動しています。
主な活動は、機関紙やウェブサイトでの情報発信、集会、デモ、労働運動、学生運動、反戦、反基地、反原発、成田空港反対運動などです。
かつてのような大規模な学生運動や、頻繁な内ゲバが続いているわけではありません。
一方、警察庁と公安調査庁は、これらの組織が革命路線を放棄していないとして、現在も動向を調査しています。
革労協の一部については、2010年代にも在日米軍施設などへ向けた飛翔弾発射事件が起きています。
赤軍派そのものは現存する主要組織ではありません。
連合赤軍は1972年に壊滅し、日本赤軍は2001年に解散を表明しました。
ただし、日本赤軍が起こした事件では現在も手配されている関係者がおり、よど号グループをめぐる問題も残っています。
現在の市民運動と新左翼を混同してはいけない
反戦、反原発、基地反対、労働問題などは、新左翼党派だけが扱うテーマではありません。
一般市民、研究者、労働組合、宗教団体、政党、NPOなども、それぞれの立場から活動しています。
新左翼党派が参加した集会だからといって、主催者や参加者全員がその党派に所属しているとは限りません。
逆に、党派が名称を前面に出さず、一般的な団体名や実行委員会名で活動へ参加する場合もあります。
関係を判断するには、役員、機関紙、連絡先、事務所、継続的な共催関係など、具体的な情報を確認する必要があります。
政治的な立場が似ているというだけで、個人や市民団体を「中核派」「革マル派」などと決めつけるべきではありません。
まとめ
日本の新左翼は、一つの巨大組織ではありません。
中核派と革マル派は、反スターリン主義を掲げた革共同が1963年に分裂して生まれました。
革労協は、社会党系の青年組織に形成された社青同解放派を源流とし、現在は主流派と反主流派に分かれています。
赤軍派は、第二次ブントから1969年に分裂した組織です。
赤軍派からは、北朝鮮へ渡ったよど号グループ、中東を拠点とした日本赤軍、国内で革命左派と合流した連合赤軍という異なる流れが生まれました。
中核派、革マル派、革労協、赤軍派は、すべて日本共産党とは別組織です。
また、全学連や全共闘も、これらの党派と完全に同じ組織ではありません。
系譜を理解する最大のポイントは、革共同系、社青同解放派系、共産同・ブント系という三つの流れを分けることです。
似た名称や共通する政治課題だけで判断せず、どの母体から、いつ、どのような路線対立によって分かれたのかを見ると、複雑な新左翼の歴史が理解しやすくなります。