「革労協」という名前は、中核派や革マル派と並んで、戦後日本の新左翼を説明する際によく登場します。
そのため、革労協も中核派と革マル派が分裂した際に生まれた第三のグループだと思われがちです。
しかし、これは正確ではありません。
中核派と革マル派は「革命的共産主義者同盟」、通称・革共同を共通の源流としています。
一方、革労協は、日本社会党系の青年組織だった日本社会主義青年同盟、通称・社青同の内部から生まれた「社青同解放派」を源流とする別系統の組織です。
簡単に整理すると、次のようになります。
・中核派と革マル派は「革共同系」
・革労協は「社青同解放派系」
・革労協は革マル派と激しい内ゲバを繰り返した
・革労協自身も、1981年前後と1999年に大きく分裂した
つまり、革労協を理解するには、中核派・革マル派との違いだけでなく、革労協内部の分裂まで見る必要があります。
今回は、革労協の成り立ち、思想、革マル派との抗争、二段階の分裂、現在の組織状況についてわかりやすく解説します。
革労協とは
革労協は「革命的労働者協会」の略称です。
1969年、社青同解放派の中心的な政治組織として結成されました。
国立国会図書館には、現代社が1969年9月に発行した『結成宣言――革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)』が所蔵されています。この書誌からも、革労協の正式な結成時期と当初の名称を確認できます。
警察庁の資料では、「暴力革命による共産主義社会の実現を目指す極左暴力集団」の一つに分類されています。
ただし、「極左暴力集団」は治安当局が用いる行政上の呼称です。
思想史や社会運動史の説明では、「新左翼党派」「社青同解放派系」などの言葉も使われます。
また、組織が過去に違法な武装闘争や内ゲバを行ったことと、集会や労働運動に参加する個人すべてが犯罪行為に関与していることは分けて考える必要があります。
現在の「革労協」は一つではない
革労協という名称がわかりにくい最大の理由は、分裂後も複数の組織が革労協や解放派の名称を使っていることです。
現在、警察庁は次の二組織を区別しています。
・革労協主流派
正式名称は「革命的労働者協会(社会党社青同解放派)」
・革労協反主流派
正式名称は「革命的労働者協会(解放派)」
一般には、主流派を「現代社派」「狭間派」、反主流派を「赤砦社派」「木元派」などと呼ぶことがあります。
令和7年版警察白書では、2024年中の動向として、主流派が成田闘争、反主流派が反戦・反基地闘争をそれぞれ重点課題としていたと説明されています。
これとは別に、1981年前後の最初の分裂で離れた「革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会」、通称・解放派全協または労対派も存在します。
国立国会図書館には、同組織が編集する機関誌『連帯』の2026年3月号も収蔵されています。したがって、革労協の系譜を広く見れば、現在も少なくとも三つの流れを区別する必要があります。
革労協の源流は日本社会党系の社青同
革労協の歴史は、1960年に結成された日本社会主義青年同盟、略称・社青同から始まります。
社青同は、当時の日本社会党の指導下でつくられた青年組織でした。
ただし、社青同の内部は一枚岩ではありませんでした。
社会党や社会主義協会に近い勢力だけでなく、より急進的な革命路線を唱える青年や、旧共産主義者同盟系の活動家も参加していました。
警察庁の『昭和63年警察白書』は、共産同系活動家が社青同内で勢力を拡大し、1965年に社青同解放派を組織し、1969年に革労協を結成したと説明しています。
この流れを時系列で整理すると、次のようになります。
・1960年 日本社会主義青年同盟が結成される
・1965年 社青同内部に解放派が形成される
・1969年 解放派の政治組織として革労協が結成される
・1970年代初頭 元の社青同・社会党の組織的枠組みから独立していく
したがって、現在の革労協が日本社会党や社民党の下部組織であるという意味ではありません。
正式名称に残る「社会党・社青同解放派」は、組織の歴史的な出自を示す名称です。
革労協は何を主張したのか
革労協の思想を一言で説明するのは困難ですが、初期の社青同解放派は「マルクス主義の復権」と「プロレタリア世界革命」を掲げました。
既成の社会党については、議会政治や労働組合の上層部に依存し、資本主義体制の根本的な変革を放棄していると批判しました。
日本共産党についても、スターリン主義的な官僚組織であり、労働者自身による革命を抑えていると批判しました。
一方で、中核派や革マル派が重視したレーニン型の前衛党論についても、党組織が労働者大衆の上に立つ危険があるとして批判的でした。
思想上は、労働者自身の自己解放、職場や地域での大衆的な行動委員会、国境を越えたプロレタリア革命などを重視したと説明されます。
ただし、実際の革労協は、理論上の大衆自己解放を掲げる一方、中央集権的な指導部と非公然の軍事部門を形成しました。
1972年には「プロレタリア突撃隊」を登場させ、その後「プロレタリア統一戦線戦闘団」と改称しています。警察白書によると、同部隊は権力へのゲリラ攻撃と、敵対すると判断した他勢力への軍事的対決を任務としていました。
思想として掲げた「労働者の自己解放」と、現実に形成された軍事的・秘密組織との矛盾は、後の分裂を考えるうえでも重要です。
中核派・革マル派との違い
三派の違いを比較すると、次のようになります。
| 項目 | 革労協 | 中核派 | 革マル派 |
|---|---|---|---|
| 正式名称 | 革命的労働者協会 | 革命的共産主義者同盟全国委員会 | 日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派 |
| 主な源流 | 日本社会党系の社青同解放派 | 革命的共産主義者同盟 | 革命的共産主義者同盟 |
| 成立の節目 | 1965年に解放派、1969年に革労協 | 1963年に革マル派と分裂 | 1963年に中核派と分裂 |
| 思想上の特徴 | マルクス主義の復権、労働者の自己解放、レーニン主義批判 | 反帝国主義・反スターリン主義、大衆闘争と労働運動 | 黒田寛一の革命的マルクス主義、組織建設と理論活動を重視 |
| 歴史的な活動基盤 | 反帝学評、明治大学、労働運動、寄せ場、成田闘争など | 学生運動、反戦運動、労働運動、成田闘争など | 学生運動、労働運動、組織的な調査・防衛活動など |
| 主な内ゲバ | 革マル派との抗争、革労協内部の抗争 | 革マル派との抗争 | 中核派・革労協との抗争 |
最も重要なのは、組織の系譜です。
中核派と革マル派は、同じ革共同から分裂した「兄弟党派」に当たります。
警察白書は、革共同が1963年に闘争路線などをめぐって中核派と革マル派に分裂したと説明しています。
これに対し、革労協は社青同解放派から生まれています。
三派とも革命的マルクス主義を掲げ、既成左翼を批判し、学生運動や労働運動に関与したという共通点はあります。
しかし、革労協は中核派や革マル派の支部でも分派でもありません。
中核派と革マル派は同じ組織から分裂した
中核派と革マル派の対立は、革共同内部の理論、組織運営、運動方針をめぐる分裂から始まりました。
両派はどちらも「反帝国主義・反スターリン主義」を掲げながら、どちらが真の革共同を継承しているのかを争いました。
そのため、両者の対立は単なる政策論争ではなく、相手組織の存在そのものを否定する抗争へ発展しました。
1970年代には相互の幹部や活動家を標的とする内ゲバが激化し、多数の死傷者を出しています。
一方、革労協と革マル派は共通の組織から分裂したわけではありません。
それでも両者は、大学自治会や学生運動の主導権、他党派への評価、内ゲバ事件への報復などをめぐって激しく対立しました。
つまり、革マル派は同じ時期に、同系統の中核派と、別系統の革労協という二つの勢力を主要な敵として抱えることになりました。
革労協と革マル派はなぜ対立したのか
革労協と革マル派の対立には、大学や学生自治会をめぐる主導権争いがありました。
社青同解放派は、反帝学生評議会、略称・反帝学評を学生組織として持ち、明治大学や神奈川大学などで活動していました。
革マル派も学生自治会や大学内拠点の拡大を重視していたため、両派の活動領域が重なりました。
さらに、双方が相手を単なる競争相手ではなく、革命運動を内部から破壊する「反革命勢力」と規定したことで、政治的対立が暴力抗争へ変わっていきます。
1977年には、革マル派による「革労協書記長殺人事件」が発生しました。
殺害されたのは、革労協の書記長だった中原一、本名・笠原正義です。
これに対し、革労協は同年4月、埼玉県浦和市で革マル派活動家が乗った車両を襲撃しました。
警察白書によると、革労協側は車を前後から挟んで停止させ、窓を破壊して車内にガソリンを入れて点火し、革マル派活動家4人を死亡させました。
この事件は、革労協と革マル派の抗争が、集団乱闘ではなく計画的な殺害と報復の段階に達していたことを示しています。
最初の分裂――狭間派と労対派
革マル派との抗争が長期化する中で、革労協内部では運動方針をめぐる対立が深まりました。
一方には、革マル派への報復と非公然・軍事闘争を重視する狭間嘉明らのグループがありました。
他方には、労働運動や大衆運動を重視し、軍事活動に傾斜する指導部を批判するグループがありました。
後者は、労働者対策部門の活動家が中心だったことなどから「労対派」と呼ばれます。
対立は、軍事闘争と大衆運動のどちらを優先するかという問題だけではありませんでした。
指導部の権限、組織内部の批判をどこまで認めるか、機関紙や拠点を誰が管理するかといった組織支配の問題も重なっていました。
1980年から1981年にかけて両グループの対立は暴力抗争へ発展し、革労協は事実上分裂しました。
『昭和57年警察白書』によると、1981年には革労協の組織分裂に伴う内ゲバ事件が4件発生しています。
分裂後は、おおむね次の二つに分かれました。
狭間派・現代社派
狭間嘉明らを中心とするグループです。
従来の革労協の名称、機関紙『解放』、公然拠点の現代社を引き継ぎました。
警察や報道では「革労協狭間派」と呼ばれるようになります。
労対派・解放派全協
労働運動や大衆運動を重視したグループです。
後に「革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会」を名乗りました。
機関誌は当初『プロレタリア革命』で、後に『連帯』へ改題されています。
国立国会図書館の書誌では、『プロレタリア革命』が1981年から1996年まで発行され、1997年以降は『連帯』に引き継がれたことが確認できます。
ここで注意したいのは、現在の警察白書に出てくる「革労協主流派・反主流派」が、この狭間派と労対派を指すわけではないことです。
現在の主流派・反主流派という区分は、その後、狭間派側で起きた1999年の二度目の分裂によって生まれました。
二度目の分裂――現代社派と赤砦社派
1990年代末、狭間派内部で再び対立が起こりました。
背景には、指導部の組織運営、学生運動の方針、明治大学をめぐる問題への対応、軍事活動の位置づけなどをめぐる対立があったとされます。
ただし、内部の意思決定資料は十分に公開されておらず、分裂理由に関する当事者双方の説明も食い違っています。
したがって、「この一件だけが分裂原因だった」と断定するのは適切ではありません。
警察白書によると、1999年5月、革労協狭間派は狭間嘉明を中心とする主流派と、山田茂樹を中心とする反主流派に事実上分裂しました。
分裂後は次のように呼ばれます。
・主流派=現代社派、狭間派
・反主流派=赤砦社派、木元派、山茂派
両派は組織名、機関紙、学生組織、運動拠点などの継承を主張し、対立は短期間で内ゲバへ発展しました。
1999年中だけで5件の内ゲバ事件が起き、活動家3人が死亡、1人が重傷を負いました。
2000年2月にも3件の事件が相次ぎ、2人が死亡、2人が負傷しています。
さらに平成17年版警察白書は、1999年の分裂から2005年6月までに両派間の内ゲバ事件が13件発生し、8人が殺害されたと記録しています。
これとは別に、2004年6月に反主流派活動家2人が死亡した事件についても、内ゲバ容疑事件として捜査していたとしています。
革労協の二度目の分裂は、同じ理論と歴史を共有していた組織が、指導権争いをきっかけに相互の物理的な排除へ進んだ典型例といえます。
革労協の分裂を時系列で整理
革労協の歴史を簡単な年表にすると、次のようになります。
1960年
日本社会党の指導下で日本社会主義青年同盟、社青同が結成される。
1965年
社青同内部に、より急進的な革命路線を掲げる社青同解放派が形成される。
1969年
解放派の中心的政治組織として革命的労働者協会、革労協が結成される。
1972年
非公然・軍事部門として「プロレタリア突撃隊」が登場する。後に「プロレタリア統一戦線戦闘団」と改称される。
1970年代前半
革マル派との内ゲバが激化する。
1977年
革マル派による革労協書記長殺人事件が発生する。革労協は浦和市で革マル派活動家4人を殺害し、報復抗争が激化する。
1980~1981年
軍事闘争を重視する狭間派と、労働運動・大衆運動を重視する労対派が衝突し、革労協が分裂する。
1980年代
狭間派は革労協・現代社派として活動を継続する。労対派は解放派全国協議会として別組織化する。
1999年
狭間派が、現代社を拠点とする主流派と、後に赤砦社を拠点とする反主流派に再分裂する。
1999~2000年
主流派と反主流派の間で殺人を含む内ゲバ事件が相次ぐ。
2000年代以降
主流派、反主流派、解放派全協という別々の組織が、それぞれ活動を継続する。
なぜ新左翼党派は分裂を繰り返したのか
革労協に限らず、戦後日本の新左翼党派は分裂を繰り返しました。
第一の理由は、理論と路線の正しさが組織の存在意義そのものになっていたことです。
革命をどのような段階で実現するのか、労働者と学生のどちらを重視するのか、大衆運動と軍事闘争のどちらを優先するのかといった違いが、単なる意見の違いではなく「革命と反革命の対立」として扱われました。
第二の理由は、指導部、機関紙、活動拠点、学生自治会、労働運動上の影響力を誰が引き継ぐのかという組織支配の問題です。
新左翼党派では、機関紙の発行権や公然拠点の管理が、正統な組織を名乗るための重要な根拠となりました。
第三の理由は、非公然・軍事部門の存在です。
内部対立が起きた際、組織が既に調査部門や襲撃部隊を持っていれば、政治論争が暴力へ転化しやすくなります。
第四の理由は、報復の連鎖です。
一人が襲撃されると、相手への報復が組織防衛上の義務とされます。報復に対する再報復が続き、当初の路線論争とは無関係に抗争が自己目的化していきました。
警察白書も、各党派が自派の理論だけを正しいものとし、他派を革命を妨げる勢力とみなしたことが、内ゲバの思想的背景になったと分析しています。
現在も武装闘争を続けているのか
1960年代末から1970年代のような大規模な学生動員や街頭武装闘争は見られなくなりました。
一方、警察庁は、革労協主流派と反主流派が現在も非公然組織を維持し、機関紙上で武装闘争を主張しているとみています。
近年の活動では、主流派は成田空港問題、反主流派は反戦・反基地問題を重点的に扱っています。
集会、デモ、機関紙発行、労働問題、日雇い労働者への支援活動など、公然活動も行っています。
ただし、各組織の実際の構成員数、指揮命令関係、非公然部門の規模については、第三者が検証できる公開資料が限られています。
治安当局の評価、各組織自身の機関紙、報道機関の取材を区別して読む必要があります。
革労協についてのよくある誤解
中核派から分裂した組織ではない
革労協は社青同解放派系です。
中核派と革マル派は革共同系であり、系譜が異なります。
赤軍派や日本赤軍の系列ではない
赤軍派は共産主義者同盟、ブントから生まれた組織です。
革労協とは別の系統であり、よど号グループ、連合赤軍、日本赤軍とも組織的には異なります。
現在の社民党の青年部ではない
正式名称に「社会党社青同」と残っていますが、これは歴史的な出自を示す名称です。
現在の社民党から指揮を受ける下部組織という意味ではありません。
主流派と反主流派だけではない
1999年に分裂した現代社派と赤砦社派のほか、1981年前後の分裂で離れた解放派全協も別に存在します。
「解放」という名称だけでは組織を判別できない
革労協系の機関紙には『解放』という名称が使われていますが、革マル派の機関紙も『解放』です。
同じ名称だから同一組織というわけではなく、発行主体や出版社を確認する必要があります。
まとめ
革労協は、正式には革命的労働者協会といい、1969年に社青同解放派の政治組織として結成されました。
中核派・革マル派と同じ新左翼に分類されますが、組織の源流は異なります。
中核派と革マル派は革共同から分裂した組織であるのに対し、革労協は日本社会党系の青年組織だった社青同から生まれました。
革労協は1970年代に革マル派との激しい内ゲバを展開し、1977年の書記長殺害と浦和市内ゲバ殺人事件を経て、軍事闘争への傾斜を強めました。
その後、1981年前後に狭間派と労対派へ分裂し、さらに狭間派が1999年に現代社派と赤砦社派へ分裂しました。
現在の革労協を理解する際は、少なくとも次の三つを区別する必要があります。
・革労協主流派、現代社派
・革労協反主流派、赤砦社派
・解放派全国協議会、労対派
革労協、中核派、革マル派は、いずれも革命的マルクス主義を掲げ、学生運動や労働運動に関与してきました。
しかし、「どこから生まれたのか」「どの理論を重視したのか」「誰と何をめぐって対立したのか」は異なります。
三派を単純に同じ過激派として一括するのではなく、革共同系と社青同解放派系という出自の違い、そして各組織内部の分裂過程を分けて見ることが重要です。